本多忠真
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本多 忠真(ほんだ ただざね、享禄3年(1530年)か天文3年(1534年)? - 元亀3年(1572年))は戦国時代の武将。徳川(松平)家に二代仕え、甥に本多忠勝を持つ。
槍の名手であり、また若かりしき頃の本多忠勝の教育を受け持つ。読み・書きから武士としての心得などありとあらゆる事を戦死した兄の本多忠高の代わりに教える。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である鷲津砦での攻防戦では、初陣の忠勝を補佐し、また忠勝が織田家の武将・山崎多十郎に討ち取られそうになった時も、槍を投げて甥の窮地を救っている。その後も甥の忠勝の補佐的な役割として、数々の合戦に従軍した。文亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、自ら殿(しんがり)を買って出て、旗指物を左右に突き刺し、「ここから後へは一歩も退かぬ」といって更に「我こそは本多平八郎忠勝なり!」と名乗りをあげながら駆け、甥の窮地を最後まで救った。尚、これが忠真の最後の甥への忠勤であった。