李永
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李永(りえい、生年不詳-838年 )は、唐の皇族。第十四代皇帝・文宗の次男(正史では長男と表記されている)で、諡は荘恪太子。生母は王徳妃(一説では彼女を寵愛しなくなった文宗に誅殺されたというが真偽の程は不詳)である。
彼には、生まれつき素質があった異母兄の晋王(名は不詳)がいた。830年に、晋王は皇太子に立てられた。父・文宗は宝暦年間の飢饉の状況を見て、自ら倹約を奨励した。太子もこれを厳守したので、父帝はもとより重臣達の信望も篤かったという。だが、太子の晋王は832年に惜しくも早世し、父の文宗を嘆き悲ませた。その後、当分は立太子の建議は保留されたが、止むなくあまり素質が芳しくない異母弟の李永が新太子に指定されたという。
一方、李永は830年に魯王に封じられる。832年、兄の晋王が早世し、彼が皇太子に立てられた。韋貫之が侍読として教育係となったが、彼は遊び好きで、政務を怠り、家臣らを絶望させたという。しばらくして生母の王徳妃が帝の寵愛が衰え、楊賢妃(弟・李宗倹の生母)が父帝の寵愛を受けたために、文宗は次男を廃嫡にし、三男の蒋王(李宗倹)を立太子することに決定した(この李宗倹も父よりも先立ったという)。家臣達もこの建議には納得し、こうして李永は太子を廃嫡され、少陽院に幽閉された。そして838年に前太子の李永は病で早世したという。こうして、文宗は自身が逝去する時には、後を継ぐ全ての子供を失ったのである。
『新唐書』(巻八十二 列伝第七)
莊恪太子永,大和四年始王魯。帝以王幼,宜得賢輔,因召見傅和元亮。元亮以卒史進,有所問,不能答。帝責謂宰相:「王可教,官屬應任士大夫賢者,寧元亮比邪。」於是劇選戶部侍郎庾敬休兼王傅,太常卿鄭肅兼長史,戶部郎中李踐方兼司馬。六年,遂立為皇太子。帝承寶曆荒怠,身勤儉率天下,謂晉王生謹敏,欲引為嗣,會蚤夭,故久不議東宮事。及太子立,天下屬心焉。
開成三年,詔宮臣詣崇明門謁朔望,侍讀偶日入對。太子稍事燕豫,不能壹循法,保傅戒告,憖不納。又母愛弛,楊賢妃方幸,數譖之。帝它日震怒,御延英,引見■臣,詔曰:「太子多過失,不可屬天下,其議廢之。」■臣頓首言:「太子春秋盛,雖有過,尚可改。且天下本,不可輕動,惟陛下幸赦。」御史中丞狄兼■流涕固爭,帝未決,罷。■臣又連章論救,意稍釋,詔太子還少陽院,以中人護視,誅倖昵數十人,敕侍讀竇宗直、周敬復詣院授經。然太子終不能自白其讒,而行己亦不加脩也。是年暴薨,帝悔之。
明年,下詔以陳王為太子,置酒殿中。有俳兒緣橦,父畏其顛,環走橦下。帝感動,謂左右曰:「朕有天下,返不能全一兒乎。」因泣下。即取坊工劉楚才等數人付京兆榜殺之,及禁中女倡十人斃永巷,皆短毀太子者。宰相楊嗣復等不及知,因言:「楚才等罪當誅,京兆殺之,不覆奏,敢以請.。」翌日,詔京兆後有決死敕不覆者,亦許如故事以聞。