文宗 (唐)
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文宗(ぶんそう、808年-840年、在位は826年-840年)は、唐の第十四代皇帝。第十二代皇帝・穆宗の次男で、第十三代皇帝・敬宗の同年の異母弟である。元の名は涵、諱は昂。初めは江王に封爵。廟号は昭献孝皇帝。
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[編集] 生涯
826年、異母兄の敬宗が劉克明によって殺害されると、その劉克明と対立する宦官の王守澄一派によって擁立された。このため、文宗は皇帝としての実権を殆ど持たず、傀儡に近い存在であった。
このような状況を打破するため、831年に宰相の宋申錫と共に宦官の討滅を図ったが失敗する。だが、文宗は諦めず、835年に李訓らと共にまたもや宦官討滅を図った。これは当時、唐の実権を掌握していた王守澄を自殺に追い込んだまでは成功したのだが、その後の宦官皆殺し計画は事前に発覚してしまい、李訓らは殺され、文宗は捕らえられて幽閉されることとなった。この事件を、甘露の変という。
時は遡って、文宗は既に実子の晋王と荘恪太子と蒋王を相次いで失っていたために、亡兄の敬宗の末子である陳王の李成美を皇太甥としていたが、前述の甘露の変によって専横を極める宦官の仇士良らの手で皇太甥・李成美は殺害され、文宗の異母弟である頴王・李瀍が皇太弟として擁立されることになった。そして840年、文宗は幽閉の身で33歳で崩御した。生前に、彼の最後の言葉は「朕は周の赧王・漢の献帝なりけり。いづれは家奴にされるであろう…」と嘆いていたという。
[編集] 宗室
[編集] 妻妾
- 王徳妃
- 楊賢妃
[編集] 子
[編集] 年号
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