村国志我麻呂
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村国志我麻呂(むらくにのしがまろ、生没年不明)は、日本の飛鳥時代から奈良時代にかけての人物である。旧仮名遣いでの読みは同じ。名は志賀麻呂とも書く。姓(カバネ)は連。726年に造頓宮司になり、播磨国に頓宮を造った。従五位下。
村国氏は美濃国各務郡の豪族で、村国男依が672年の壬申の乱で功を立てたことにより、朝廷でも知られるようになった。志我麻呂は男依の子である。
霊亀2年(706年)4月8日、父の小依(男依)が壬申の年に立てた功によって、従六位下の志我麻呂は功田を与えられた。養老2年(718年)に、従六位上から従五位下に進んだ。
神亀3年(726年)9月26日に、従四位下の門部王、正五位下の多治比広足、従五位下の村国志我麻呂ら18人が、造頓宮司に任命された。聖武天皇はこのとき播磨国の印南野に出かけようと計画しており、その行宮を造るのが彼らの仕事であった。天皇は10月7日に出発し、10日に印南野邑美頓宮に着いた。『続日本紀』には17日に播磨国の人々に恩典を与え、19日に難波宮に着いたとあるので、利用は10日から17日までの7日間と思われる。
志我麻呂は天平3年(731年)に従五位上に昇った。志我麻呂についての記録はこれで終わり、いつ死んだかも不明である。
[編集] 年譜
霊亀2年 | 706年 | 4月8日 | 村国連小依の息、従六位下志我麻呂が田を与えられた。 |
養老2年 | 716年 | 1月5日 | 従六位上の村国連志賀麻呂が従五位下になった。 |
神亀3年 | 726年 | 9月26日 | 従五位下の村国連志我麻呂らが造頓宮司になった。 |
天平3年 | 731年 | 1月27日 | 従五位下の村国連志我麻呂が従五位上になった。 |