杜審言
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杜審言(と しんげん、645年(貞観19年) - 708年(景竜2年))は中国・唐代(初唐)の詩人。襄州襄陽(現在の湖北省襄樊市)の人。字は必簡。西晋代の杜預の子孫に当たり、杜依芸の子。子に杜閑・杜并ら、孫に杜甫がいる。
[編集] 略歴
670年(咸享元年)進士となり、隰城県(河南省)の尉となった。自らの才能を恃むところ頗(すこぶ)る強く、大胆な放言をしては周囲から憎悪されていた。また、杜審言は立場が上の人間に対する態度は弱く、武則天に召し出された時には、必要以上に媚び諂って感謝するという有様であった。しかし、詩を絶賛されたり、李嶠・崔融・蘇味道らと共に「文章四友」と呼ばれるなど、その才能は認められていた。
705年(神竜元年)頃、武則天の寵臣・張易之らと親しくしていたために左遷され、峰州(ベトナム近く)に流された。その後、都に戻って国子館主簿・修文館直学士になり、病死した。死に際しても見舞いに来た友人の宋之問らに「わたしの才能が今まで君達を押さえ込んできたが、これからわたくしが死ぬからにはさぞ喜ばしかろう」などと言い放ったという。
[編集] 詩風
詩は五言律詩を得意とする。『杜審言集』が明代に編纂された。