東百官
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東百官(あずまひゃっかん)は関東地方において武士が称した官職風の人名である。但し、朝廷における官職には存在せず、あくまで朝廷の官職を模倣してつくられたものである。別名、相馬百官ともいい、平将門が新皇を称して新政権樹立を図った際に設けた官職体系であるという伝説もある。朝廷の律令官制に基づいた公卿百官に対して、関東における官職風の人名であることから、東百官、武家百官ともいわれた。主に江戸時代以降称されることとなり、江戸時代の学者は、「由緒正しからず、名乗るべからず」と評しているが、武士の間では有力武家、名門の子弟までもが称した。 百官名同様に、名字の次、諱の前に入れて名乗った。
[編集] 主な東百官の例
頼母(たのも)、源内(げんない)、十内(じゅうない)、左内(さない)、右内(うない)、左門(さもん)、右門(うもん)、求馬(もとめ)、久米(くめ)、伊織(いおり)、左膳(さぜん)、右膳(うぜん)、小膳(しょうぜん)、左平(さへい)、右平(うへい)、左中(さちゅう)、右中(うちゅう)、中記(ちゅうき)、要人(かなめ)、男吏(だんり)、数馬(かずま)、司書(ししょ)、浪江(なみえ)、波門(はもん)、平馬(へいま)、兵馬(へいま)、丹下(たんげ)、衛守(えもり)、江漏(えもり)、兎毛(ともう)、古仙(こせん)、藤馬(とうま)、弾馬(だんま)、牧太(まきた)、武極(ぶきょく)、蔵主(くろうず)、音門(おんと)、自然(じねん)、男也(おなり)、清記(せいき)、弥刑部(やぎょうぶ)、大所化(おおしょけ)、小所化(こしょけ)、多門(たもん)、平角(へいつみ)、宮門(くもん)、一学(いちがく)、采弥(うねね)、采殿(うでん)、典礼(てんれい)、典女(てんにょ)、遠炊(とおい)、斎(いつき)、鵜殿(うどの)、丹宮(たみや)、将殿(しょうでん)、主尾、梅干(ほや)、信像(しんぞう)、肥富(こいづみ)、正遺(しょうい)、丹弥(たんや)、門弥(もんや)、矢柄(やがら)、茂手木(もてぎ)、喜内(きない)、軍記(ぐんき)、諸領(しょりょう)、中(あたる)、求官(ぐかん)、首令(しゅれい)、愎馬(ふくま)、申芸(しんげい)、一問多(いっとうた)、喜問多(きとうた)、志津摩(しづま)、能登路(のとじ)、織之助(おりのすけ)、織居(おりい)、文内(ぶんない)、文庫(ぶんこ)、愛助(あいすけ)、隼人助(はやとのすけ)、小源太(こげんた)、左源太(さげんた)、亙(わたり)、恰(あたか)、転(うたた)、此面(このも)
[編集] 主な例
西郷頼母、渡辺数馬、結城数馬、平賀源内、橋本左内、織田左門、本多伊織、丹下左膳(作品中の人物名)、寺西要人、清水一学、飯泉喜内、神谷転、榊原伊織(姫路藩主一門、および作品中の人物名)…