松倉城 (尾張国)
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松倉城(まつくらじょう)は現在の岐阜県各務原市川島松倉町上の島2232-1にあった戦国時代の城である。
[編集] 歴史
戦国時代の初め、1532年(天文元年)、坪内頼定が犬山城主、織田白厳に仕え、尾張国葉栗郡松倉を領した際、築城する。1548年(天文16年)に織田信秀により松倉城は強化される。頼定の曾孫の坪内利定は織田信長に仕え、信長の美濃国稲葉山城攻略の為、蜂須賀小六ら各地の有力者の協力を取り付けに奔走したが難航、木下藤吉郎の手助けがあった。
1566年、木下藤吉郎による墨俣城築城の際、木曽山中より木材を流し、松倉にて陸揚げ、加工を施してから再び川に流し、墨俣に送るという、重要な役割を果たす。これが稲葉山城攻略の大きな手助けになったと言える。
信長の死後、坪内利定は羽柴秀吉と不和となり、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでは徳川家康側につく。しかし、池田恒興の軍勢に攻められ、やむを得ず松倉城に自ら火を放ち金山(現可児市兼山)に身を隠す。暫くして徳川家康に仕え、再び松倉城に入る。
関ヶ原の戦いの後、坪内氏は羽栗郡各務郡を治める大身旗本となり、拠点を新加納に移した為、松倉城は廃城となる。
江戸時代にはこの地に榎の大木と祠があり、道しるべになっていたという。明治時代、この榎が枯れた跡に祠を建て直した。この時、戦国時代の坪内家の墓所も発掘され、新加納(現各務原市)の小林寺の墓所に埋葬しなおされた。
なお、当該地域は戦国期には尾張国葉栗郡に所属しており、美濃国松倉城では誤りとなる。綿密には、当該地域が尾張国から美濃国になったのは安土桃山時代の1585年であり、坪内家が関ヶ原の戦いの後に松倉から新加納に拠点を移した事で廃城と考えると、尾張国、美濃国両方の時代があったと考えても良い。