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徳川家康 - Wikipedia

徳川家康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目の本来の表記は「德川家康」です。一部の日本語環境で表示できない文字があるため、仮名・略字または代用文字を用いています。
徳川家康 凡例
徳川 家康
時代 戦国時代から江戸時代前期
生誕 天文11年12月26日1543年1月31日
死没 元和2年4月17日1616年6月1日
改名 松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康
別名 竹千代(幼名)、次郎三郎(通称)、
大御所(将軍引退後)、狸爺(仇名)
神号 東照大権現
戒名 東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士
安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士
墓所 日光東照宮
官位 従五位下、三河守左京大夫、従五位上、侍従
正五位下、従四位下、右近衛権少将
従四位上、正四位下、左近衛権中将
従三位、参議権中納言、正三位、従二位、
権大納言左近衛大将左馬寮御監
正二位、内大臣、従一位、右大臣
征夷大将軍太政大臣、贈正一位
主君 今川義元今川氏真織田信長豊臣秀吉
豊臣秀頼
氏族 松平氏徳川氏
自称清和源氏新田氏得川氏
父母 父:松平広忠、母:於大の方
兄弟 異母弟:家元内藤信成、忠政、樵臆恵最
異母妹:市場姫
異父弟:康元康俊康勝
正室:今川義元の姪・築山殿
継室:豊臣秀吉の妹・朝日姫
側室:養珠院西郷局茶阿局英勝院
雲光院相応院下山殿長勝院ほか
松平信康亀姫奥平信昌室)、結城秀康
督姫池田輝政室)、徳川秀忠松平忠吉
振姫蒲生秀行のち浅野長晟室)、武田信吉
松平忠輝徳川義直徳川頼宣徳川頼房ほか

徳川 家康(とくがわ いえやす、天文11年12月26日1543年1月31日) - 元和2年4月17日1616年6月1日) )は、日本の戦国大名江戸幕府の初代征夷大将軍幼名は竹千代。死の直前、武将として史上4人目の太政大臣に叙せられている。徳川王朝の開祖であることから、太祖、祖宗とも呼ばれる。

  • 小牧・長久手の戦いで10万の秀吉軍相手に互角以上の戦いをしたことから、当代一の軍略家の一人であり、関ヶ原の戦いでの相手への裏工作から、謀略なら秀吉や信長より上なのではないかと思われるほどに長けている。このことをしめす言葉として、家康のあだ名の「狸爺」がある。ただし彼が謀略家としての本質を発揮しだしたのは秀吉の死後であり、それまでは策謀の片鱗も見せず今川義元、織田信長、豊臣秀吉に対し、馬鹿正直なほどの律義者を貫いたことに留意する必要がある。果たしてそれが愚直さゆえによるものなのか、長年にわたる演技であったのかについては意見が分かれる所である。
  • 江戸幕府の開府に始まる江戸時代は264年に渡って続き、日本に長き太平の世をもたらした。家康はその始祖として称えられ、今も日光東照宮をはじめ全国に東照大権現として祀られている。

目次

[編集] 略歴

徳川氏の家紋
徳川氏の家紋

戦国時代に三河国岡崎に生まれ、人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦い以後、織田信長の盟友として版図を広げ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げ、海道一の弓取りと呼ばれた。

豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従い、豊臣政権の五大老筆頭に列せられるが、秀吉の死後は関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ)を開いた。

[編集] 生涯

[編集] 忍従の日々

三河国土豪松平氏第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542年)12月26日の寅の刻午前四時ごろ)、岡崎城で生まれる。母は水野忠政の娘・於大の方で、幼名は竹千代たけちよと称した。 2歳の時、母の実家の水野忠政の死後、嫡男の水野信元(於大の方の兄)が織田信秀についたため、今川方の庇護を受けていた父は泣く泣く於大の方を離縁。そのため家康は幼くして母と生き別れになった。

6歳の時、父・広忠は尾張国の織田信秀に対抗するため駿河の今川義元に帰属し、竹千代は今川義元の人質として駿河国府中へ送られるが、その途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の謀略により、尾張の織田信秀の元へ送られる。尾張では2年を過ごし信長とはここで知り合った。その間に父・広忠は家臣の岩松八弥に殺され、岡崎は義元の派遣した城代により支配された。

竹千代は今川方に捕えられた信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって駿府へ移され、駿府の義元の下で元服し、義元から元の字の偏諱を受け次郎三郎元信と名乗り、義元の姪である関口親永の娘・(築山殿)を娶るが、岡崎への帰還は許されなかった。名は後に祖父の松平清康の名を取って蔵人佐元康と改めている。永禄元年(1558年)には織田方に寝返った寺部城主鈴木日向守を松平重吉らとともに攻めた。

忍従の心象が強い駿府時代であるが、当時の駿府は非常に先進的な文化都市であり、ここで都市型の教養を身につけたことが後の全国制覇に大きく役立ったという面も否定できない。また、当時駿府には実の祖母である源応尼(於大の方の生母で後に広忠の父・松平清康と再婚して広忠の育ての親ともなった)が居住しており、実際にはこの祖母の屋敷で少年時代を過ごしていたとも言われている。更には今川義元も自分の姪を家康に嫁がせ、教育係として護国禅師太原雪斎をつけるなど彼個人に対してはそれほどひどい仕打ちなどしておらず、むしろ新しい親族として期待していたという見方もできる。後に家康も隠居地として駿府を選んでいる。[1]

[編集] 清洲同盟

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれると、前線の大高城(尾張国)にあった元康は、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入り、今川氏から自立を果たす。永禄5年(1562年)には義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟を結び、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。

永禄9年(1566年)までに、三河一向一揆と東三河・奥三河(三河北部)を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。永禄11年(1568年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結び、今川領であった遠江国の大半を攻め取り、掛川城で氏真を降し、元亀元年(1570年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬に移し浜松城を築いた。

永禄11年(1568年)、信長が松永久秀らによって暗殺された室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。さらに後年、足利義昭は天下の実権をめぐり信長の間に対立を深め、反信長包囲網を形成した。このとき家康にも副将軍への就任を要請し、協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。

[編集] 武田氏との戦い

家康は今川領分割に際して、武田信玄大井川を境に東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領とする協定を結んで友好関係を結んでいた。しかし領土拡大の野望に燃える信玄は、永禄11年(1569年)に一方的に協定を破棄して重臣の秋山信友に軍を預けて遠江に侵攻させた。これは徳川勢の抵抗、並びに北条氏康の牽制により失敗したが、これを契機に武田信玄と徳川家康は敵対関係となった。

元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄は遂に上洛を決意し、まずは徳川領である遠江、三河に向けて侵攻を開始する。これに対して家康は盟友・織田信長に援軍を要請するが、織田軍も当時は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺と抗争状態にあり、さらには美濃岩村城までを武田軍に攻撃され、援軍を送ることができず、徳川勢は単独で武田勢と戦うこととなる。10月13日、家康は2万2,000人の大軍を率いて伊那谷から遠江に侵攻してきた信玄本隊と戦うために、天竜川を渡って目附にまで進出する。しかし信玄の巧妙な用兵、並びに兵力の差により大敗し、本多忠勝の奮戦により何とか浜松まで帰還した(一言坂の戦い)。

この戦いを契機として武田・徳川の優劣は決定し、12月19日には遠江の要衝であった二俣城が陥落する。そのような中でようやく織田方から援軍として佐久間信盛平手汎秀率いる3,000人が送られてきた。12月20日、信玄は天竜川の西岸を南下して浜松城下に近づいた。しかし長期戦を嫌う信玄は、浜松城を悠然と進軍して三河に侵攻しようとする。これに対して家康は、信長の援将・佐久間信盛らが籠城戦を唱えるのに対して、断固として反対し、出撃した。その結果、徳川軍8,000人、織田軍3,000人と武田軍3万人により12月22日に行なわれた三方ヶ原の戦い(現在の静岡県浜松市内)で徳川・織田連合軍は大敗し、徳川方は1,000人以上の死傷者を出して、家康自身も馬上で脱糞するなどして浜松城に逃げ帰ったと言われている。このとき、武田軍が浜松城まで追撃してきたが、家康は「空城の計」を使い、それを怪しんだ武田信玄が進軍をせずに撤退をしたとされている。なお、この時の家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画が残っており、自身の戒めのために描かせたと伝わる(しかみ像)。

元亀4年(1573年)2月16日、武田信玄は三河野田城を落とした。ところがその後、信玄は発病して武田軍は甲斐へ帰還する。そして4月12日、武田信玄は帰還途中の信濃駒場で死去した。家康は信玄の死を確認するため、5月6日に武田領である駿河の岡部に放火し、5月13日には長篠城を攻めるなどしている。そしてこれら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんど無かったことから、信玄の死去を確信すると、家康は武田方に与していた豪族・奥平貞能奥平信昌らを調略して寝返らせた。

天正2年(1574年)5月、武田信玄の後を継いだ武田勝頼が2万5,000人の大軍を率いて遠江高天神城に侵攻してくる。これに対して家康は単独で迎撃することができず、信長に援軍を要請する。しかし信長の援軍が到着する前に高天神城は落城してしまった。

天正3年(1575年)5月、1万5,000人の大軍を率いて武田勝頼が三河長篠城に攻めてくる。これに対して城将・奥平信昌は善戦し、5月21日に行なわれた長篠の戦いで、織田・徳川連合軍は武田軍に大勝した。この戦いで武田軍は山県昌景をはじめとする多くの有力武将を失って壊滅し、徳川・武田の優劣は逆転した。同年、家康は信玄に奪われていた二俣城を奪還している。

天正7年(1579年)、武田勝頼と内通したとして、信長の命により正室・築山殿と長男・松平信康を、同盟関係維持のために殺害した。理由は信長が嫡男・織田信忠より優れた資質を持つ信康に危機感を覚えたためと言われるが、近年では家康と信康が対立したためという説もある。

天正9年(1581年)3月23日、家康は武田勝頼によって奪われていた高天神城を奪回する。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿である木曽義昌が織田信長に寝返ってきたことにより、武田征伐が開始された。信長は嫡男・織田信忠を総大将にして木曽口から、金森長近を飛騨口から、北条氏直を関東口から、そして家康には駿河口からそれぞれ武田領に向かって侵攻させる。これに対して、すでに連年の戦争による財政難などで民心が離反していた武田軍には組織的な抵抗力が無く、木曽から攻め込んだ織田軍はあっという間に伊那城、松尾城を落とした。徳川軍も駿河に侵攻して蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を落とし、さらには勝頼の姉婿である穴山信君を調略によって寝返らせるなどして、駿河を占領する。これに対して勝頼にはもはや対抗する力は無く、最後は味方だったはずの小山田信茂にまで裏切られて、3月11日に勝頼は甲斐東部の天目山田野において自害し、武田氏は滅亡した。

家康はこの戦功により、信長から駿河一国を与えられている。

[編集] 本能寺の変

天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・安土城を訪れた。

6月2日、堺で遊覧中に京都で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数だったので、きわめて危険な状態だった。このとき、家康は服部半蔵の進言により伊賀越えを決行し、伊勢の国から海路三河にかろうじて戻った(神君伊賀越え)。 その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張にまで進軍したが、このとき中国から大返しした羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって光秀が討たれたことを知った。

一方、信長の領土となっていた旧武田領の甲斐と信濃で一揆が起こった。さらに越後上杉景勝相模北条氏直も侵攻の気配を見せたため、信濃の森長可毛利秀頼は領地を捨てて逃亡し、上野滝川一益は北条氏直と戦って惨敗し、尾張に撤退する。甲斐の領主・河尻秀隆に至っては、武田家の税法や慣習を認めず、一方で大規模な武田の残党狩りを行い、領民や旧武田浪人から恨みを買っていたため、信長の死を契機として一揆が発生し、攻め殺されてしまった(ただし家康が影で煽動したという説もある)。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏旧臣の岡部正綱依田信蕃を先鋒として甲斐に派遣し、自らも8,000の軍勢を率いて、甲斐に攻め入った(天正壬午の乱)。

一方、甲斐と信濃が空白地帯となったのを見た相模の北条氏直も、叔父の北条氏規北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃に侵攻する。北条軍は越後から北信濃に侵攻していた上杉景勝軍と川中島で対峙した後に、北信4郡を上杉に割譲することで和睦し、南下する。次いで甲斐へ侵攻中だった徳川軍と甲斐新府城、若神子で対陣。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、徳川方の依田信蕃の調略を受けて徳川方に寝返った真田昌幸らの執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条方は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求める。和睦の条件は、上野を北条が、甲斐・信濃を徳川がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が北条氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を領有する大大名へとのし上がったのである。

[編集] 秀吉との戦い

信長死後の天正11年(1583年)、織田家筆頭家老であった柴田勝家賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉が台頭する。これに不満を覚えた信長の次男・織田信雄は、家康と手を結んだ。そして徳川・織田連合軍は天正12年(1584年)3月、尾張小牧において羽柴軍と対峙する。このとき、羽柴軍の兵力は10万、徳川・織田連合軍は5万であった。家康は兵力的に不利であったが、秀吉が小牧に到着する前の3月17日、秀吉軍の武将・森長可率いる軍勢を酒井忠次に命じて撃破させた(羽黒の戦い)。

4月5日に秀吉率いる羽柴軍主力は犬山城に入り徳川軍と対峙したが、秀吉は家康の武略を恐れて動かず、戦線は膠着状態に陥った。4月7日、秀吉方の武将・森長可とその岳父である池田恒興が三河岡崎城を奇襲すべく、別動隊を率いて出陣する。しかし家康は別働隊の動きを捕捉し、逆に羽柴別働隊に奇襲をかけて殲滅し、敵の総大将・羽柴秀次は敗走し、恒興と長可、池田元助(恒興の嫡男)らは討ち取られた(小牧・長久手の戦い)。

これを機に、秀吉は家康を正攻法で打ち破ることは困難と判断し、家康の味方である伊勢の織田信雄を攻めた。信雄軍には単独で羽柴軍と対抗できる力は無く、11月11日、秀吉と単独講和してしまった。家康は小牧・長久手の戦いの大義名分を「信長の遺児である信雄を助けて、秀吉を討つ」であったため、信雄が秀吉と講和したことで名分を失った家康は撤退を余儀なくされた。そして12月12日、秀吉との講和として、次男の於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子(人質)とすることで大坂に送った。

天正13年(1585年)に入ると、紀伊雑賀党や土佐長宗我部元親越中佐々成政など、前年の小牧・長久手の戦いで家康に味方した勢力は、秀吉によってことごとく討伐された。このため、秀吉との対立で不利になった家康は、相模の北条氏直との同盟関係を強化するため、上野の沼田領を割譲する約束を出した。ところが、沼田を支配していた信濃上田城主・真田昌幸はこれに応じず、家康から離反して越後の上杉景勝に寝返った。これに対して家康は、大久保忠世鳥居元忠を大将とした1万の軍勢を真田攻めに派遣したが、昌幸の巧妙な戦術の前に大敗を喫し、さらに上杉の援軍が来たこともあって、撤兵を余儀なくされる。

また、この頃になると徳川家中は、酒井忠次本多忠勝ら反秀吉の強硬派と、石川数正ら秀吉支持派の穏健派が対立し、分裂の危機にあった。そして11月13日、数正が徳川家から出奔して秀吉に寝返り、家康は窮地に陥ってゆく。

天正14年(1586年)4月23日、秀吉からの臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は妹の朝日姫を正室として差し出した。当時、家康には正室がいなかったためである。5月14日、家康と朝日姫は結婚するが、家康はなおも臣従しようとしなかった。しかし10月18日、秀吉が生母の大政所までも人質として岡崎城に送ってきたため、遂に家康は秀吉に臣従することを決意する。10月20日に岡崎を出立し、10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が密かに家康に会い、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城で秀吉と謁見して秀吉に臣従した。

[編集] 豊臣家臣時代

天正14年(1586年)11月1日、家康は京都に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河に帰還し、11月12日には大政所を秀吉のもとへ送り返している。12月4日、家康は居城を浜松城から駿府城へ移した。

天正15年(1587年)8月、家康は再び上洛し、8月8日に従二位、権大納言に叙任される。その後、家康は後北条氏と縁戚関係にあった経緯から、秀吉と氏直の仲介役も務めたが、氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐が始まる。家康も豊臣軍の一員として出陣し、ここに秀吉による天下統一が成った。なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から領内の徹底した実情把握を目指したものである。この検地は直後の移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。

その後、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である武蔵伊豆・相模・上野・下野上総下総の7カ国に移封された。これは150万石から250万石への加増であるが、徳川氏にとっては縁の深い三河の土地を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党など、なおも不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。だが、家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。

関東の統治の統治に際して家康は有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正向井正綱ら、有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治され、関東は大きく発展を遂げることとなる。

【家康によって配された有力家臣たち】

文禄元年(1592年)より、秀吉の命により朝鮮出兵が開始されるが、家康は北条氏の残党が反乱をおこすおそれがあることを口実に渡海することなく、名護屋城に在陣することだけで許された。慶長3年(1598年)より秀吉が病に倒れると、秀吉は後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にするため、7月に五大老五奉行の制度を定め、五大老のひとりに家康を任命した。そして8月、秀吉は死去した。

[編集] 覇権奪取にむけて

関ヶ原古戦場
関ヶ原古戦場

秀吉の死後、家康は「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という秀吉の遺言により専横の兆しを見せ始める。さらに秀吉の生前である文禄4年(1595年)8月に禁止されていた大名同士の婚儀なども行って、巧みに味方を増やし始めた。その婚儀の内容は次の通りである(ちなみに婚姻した娘は、全て家康の養女とした)。

さらに家康は、細川忠興島津義弘増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問して、多数派工作を行なった。こうした政権運営をめぐって大老・前田利家五奉行石田三成らは憤激し、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老堀尾吉晴らを問罪使として派遣した。ところが家康は、吉晴らを恫喝して追い返したと言われている。しかし2月2日、家康は前田利家らと対立する不利を悟って、誓書を交わして和解した。しかし、閏3月3日に利家が病死すると、豊臣政権下で家康と互角に渡り合えるだけの勢力を持った人物はいなくなった。

利家が死んだ日の夜、福島正則や加藤清正らが、五奉行の石田三成を襲撃した。実は豊臣政権下では、秀吉の晩年から福島ら武断派と、石田ら文治派による対立があり、秀吉と利家が死去すると、それが表面化したのである。三成は武断派諸将の襲撃をかわして家康に救いを求めた。家康も、現時点で三成を殺せば、自身の信義を問われることを恐れて三成を保護し、武断派諸将を慰撫し、三成に対しては保護する代わりに奉行職を解任して、佐和山城で蟄居させた。

9月7日、家康は大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。そしてそのまま大坂に居座って、政務を執り続けた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城西の丸に居座って、大坂で政務を執り続けた。

さらに家康はこの頃、豊臣政権下における諸大名の切り崩し工作も行なった。9月9日に登城した際、前田利長(前田利家の嫡男)・浅野長政大野治長土方雄久の4名が家康の暗殺計画を企んだとして、10月2日に長政を甲斐府中で隠居の上、蟄居させ、治長は下総結城の結城秀康に、雄久は常陸水戸佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を強行しようとしたが、利長が生母の芳春院(まつ)を江戸に人質として差し出したことで、征伐を取りやめた。しかし、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれた。家康の暗殺計画は、家康を大坂から追い出し兵を挙げようとする三成らの事実無根の謀略であったとも言われている。

さらに家康は多数派工作も行なった。

  • 対馬宗義智に1万石を加増。
  • 遠江浜松12万石の堀尾吉晴に、越前府中5万石を加増。
  • 美濃金山7万石の森忠政を、信濃川中島13万7,000石に加増移封。
  • 丹後宮津の細川忠興に、豊後杵築6万石を加増。

[編集] 関ヶ原

慶長5年(1600年)3月、家康は越後堀秀治出羽最上義光らより、会津の上杉景勝に軍備を増強するという不穏な動きがあるという報せを受ける。3月11日には、上杉氏の家臣で津川城代を務め、さらに家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠のもとへ、「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起こる。

これに対して家康は4月1日、伊奈昭綱を正使として景勝のもとへ問罪使として派遣する。ところが景勝の重臣・直江兼続は「直江状」という有名な挑戦状を返書として送ったことから、家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして、5月3日、上杉討伐を宣言した。このとき、前田玄以長束正家増田長盛ら三奉行と堀尾吉晴・中村一氏生駒親正らが征伐の中止を訴えたが、家康は無視して征伐を強行する。6月2日には、家康直属の関東の諸大名に陣触れを出し、6月6日には諸大名を大坂西の丸に集めて軍議を開いた。6月8日には後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜された。6月15日には秀頼から黄金2万両、兵糧米2万石を下賜され、ここに朝廷・豊臣氏から、家康の上杉征伐は、「豊臣氏の忠臣である家康が、謀反人の景勝を討つ」という義戦となったのである。

6月16日、家康は大坂城京橋口より、軍勢を率いて上杉征伐に出征した。同日の夕刻には伏見城に入る。ところが6月23日には浜松、6月24日には島田、6月25日には駿府、6月26日には三島、6月27日には小田原、6月28日には藤沢、6月29日には鎌倉、7月1日には金沢、7月2日には江戸という、遅々たる進軍を行なっている。家康にはどうも、自分が上方を留守にしたとき、家康に反感を持つ石田三成ら諸大名が挙兵するのを待っていたものと思われる。というのも、秀吉亡き今、家康の武力は天下随一であるが、豊臣氏の家臣であるという立場上、直接的な武力クーデターで豊臣氏を滅ぼしてもそれは反逆行為であり、他の諸大名や世論から非難されることは明らかである。そこで、家康は三成の挙兵を大義名分として、豊臣氏の乗っ取りを図ろうとしていたものと思われる。

はたして7月、石田三成毛利輝元を総大将として擁立し、大谷吉継増田長盛長束正家らと共に挙兵した。7月17日には家康によって占領されていた西の丸を奪い返し、さらに家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。7月18日には家康の命令で伏見城を守っていた鳥居元忠を攻め、8月1日に元忠は討ち取られ、伏見城は落城した。さらに三成ら西軍は伊勢、美濃方面に進出する。

これに対して家康は7月24日の下野小山の陣において、伏見城鳥居元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康はこれに対して博打を打つ。実は、家康の上杉征伐に従軍していた諸大名の大半は、福島正則ら三成に反感を持つ武断派グループだった。そのため、家康は「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると武断派グループに告げた。三成は大坂城と秀頼を事実上、擁立していたため、家康は彼らが三成のもとへ駆けつけることを恐れたのであるが、この家康の発言に福島正則加藤嘉明らは家康に味方すると告げ、ここに家康の東軍が結成されたのである。

東軍は、家康の徳川直属軍と福島らの軍勢、合わせて10万ほどで編成されていた。そのうち、一隊は徳川秀忠を総大将として宇都宮から中山道を、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かうこととなる。さらに家康は7月24日から9月14日にかけて、160通近い書状を書き、さらに味方を増やすべく諸大名に回送している。

8月10日、福島正則ら東軍は尾張清洲城に入る。8月21日には西軍の勢力下にあった美濃に侵攻し、8月23日、西軍の織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき、家康は信長の嫡孫であるとして、秀信の命を助けている。

9月1日、家康は江戸城から出陣し、9月14日に美濃に着陣した。同日、前哨戦として三成の家臣・島左近宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲をかけてきた。それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色頼母が戦死してしまった(杭瀬川の戦い)。

9月15日午前8時、美濃関ヶ原において遂に東西両軍による決戦が繰り広げられた(関ヶ原の戦い)。当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であった。これに対して午後0時、家康は不利な戦況を打開すべく、鉄砲隊長の布施孫兵衛に命じて、松尾山小早川秀秋に対して鉄砲を撃ちかけさせた。これを機に秀秋は西軍を裏切って東軍に味方することを決意し、小早川軍は西軍の大谷吉継隊に襲いかかる。これに対して大谷隊も奮戦したが、さらに脇坂安治朽木元綱赤座直保小川祐忠らの寝返りもあって西軍は総崩れとなり、ここに関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わった。

家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月1日には六条河原で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、それらから奪った所領のうち、自分の領地を250万石から400万石に増やした。秀頼、淀殿に対しては「女、子供の預かり知らぬところ」とお咎めなしで領地もそのままだったが、家康の論功行賞により各地の大名に預けていた領地がなくなった。その結果として豊臣氏は摂津河内和泉65万石の一大名の身分に落とし、家康が実質上の天下人として君臨したのである。

[編集] 征夷大将軍

関ヶ原の戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城西の丸を豊臣氏に明け渡して、伏見城に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行なった。将軍になれるのは清和源氏でなければならないという慣例もあった。そこで家康は、神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を源氏の源義家に通じるように整備させた。


※注意

近年笠谷和比古や煎本増夫の研究によれば、家康が源氏を公称したのはこれよりはるか前の天正16年であるとされる。後陽成天皇聚楽第僥倖に際して提出された誓紙の中で家康が「大納言源家康」と署名している為である。他に天正19年、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康は既に源氏の公称を許されていた」と指摘している。なお、家康は勅許を得て松平姓から徳川姓に改姓した際には藤原氏を公称していた。また実際には清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がないので将軍になれるのは清和源氏でなければならないというのは江戸期に作られた俗説とする説がある。


慶長8年(1603年)2月12日、朝廷後陽成天皇から参議の勧修寺光豊が勅使として伏見城に派遣された。そしてここで六種八通の宣旨が下され、家康は征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命された。征夷大将軍の任官に伴い、源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、足利義満以来であり、しかも義満の場合は年次を追って下されたが、家康の場合はそれらを同時に任命されたから、破格の厚遇だったのである。

3月21日、家康は二条城で正式な将軍宣下を受け、3月25日には参内して将軍拝賀の礼を述べた。ただし、朝廷から正式な将軍宣下が行なわれたのは3月27日であり、この日をもって江戸幕府が開かれたと見てよい。家康は遂に念願だった日本の国王・皇帝の地位を手に入れた。

家康は秀吉の死から四年半で、豊臣氏の五大老から武家の棟梁としての地位を手に入れた。家康は秀吉の義弟にして、五大老筆頭、足利とならぶ河内源氏の名門、新田の出であること、何より関東を実質的に支配していることを、朝廷に運動し征夷大将軍の宣下を請うた。一歩間違えば天下簒奪の謗りを免れないが、秀頼幼少を理由にするとも、西欧列強への備えを理由とするとも、当時の家康の勢力からすれば大義名分はどうにでもなったといえよう。しかるに、豊臣家がそれを心穏やかに見る筈もなく、豊臣方には将軍就任を一時的なものであると印象づけておいた。また、徳川氏の源氏改姓が関ヶ原の戦い以後であるならば、藤原姓の内大臣であった家康が藤原姓を理由に関白へ就任する事も可能であった。だが、それでは秀吉と同じ様な政権しか作りえない。豊臣政権の脆弱さを目の当たりにした家康にとっては豊臣政権の構想を否定するために征夷大将軍として武家の棟梁となり、朝廷に対しては関白に代わって源氏長者の立場で発言力を確保したのである。

当時における主従は武家社会では重要であるが、朝廷の権威をもってしては、私的なものでしかない。朝廷から武家の棟梁として認への大義名分を得、名実ともに豊臣家を上回る地位を確立した。幕府開府にあたって武家諸法度禁中並公家諸法度の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定めた。朝廷を掌握すれば豊臣家が大義名分の上で形成挽回する道はなく、天下統一の後においても、朝廷を支配下に入れることは、その後の謀叛の予防やあらゆる政治的な優位を確立する上で重要であった。

[編集] 大御所政治

慶長10年(1605年)4月16日、家康は三男の徳川秀忠に譲位を行い、以後は徳川氏による将軍職の世襲を確実なものとした。同時に家康は、秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿が激怒して拒絶する。結局、家康が六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで、事は収まった。しかし、豊臣家の権威が大きく傷ついたことはいうまでもない。

慶長12年(1607年)からは駿府城に移って、江戸の将軍・秀忠に対して大御所として実権を掌握し続けて二元政治をとりつつ、幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)。ただし、二元政治と言われるが、実際は家康・秀忠の対立も多く、また徳川家臣による権力闘争も少なくなかった。慶長17年(1612年)の岡本大八事件、慶長18年(1613年)の大久保長安事件などが、それを如実に示している。

慶長16年(1611年)には二条城豊臣秀頼と会見したいと要望した。主筋を自認する豊臣家はこれを拒絶する方向でいたが、将軍秀忠は秀頼の岳父である関係で、あくまで岳父への挨拶にという名目で上洛を要請し、ついには秀頼を上洛させることに成功。これで秀頼の方から徳川家に足を運んだ形となり、天下の衆目は家康が日本の君主であることを認めることとなる。

[編集] 方広寺鐘銘問題

家康は当初、徳川家と豊臣家を共存させていこうという考えであった。諸寺仏閣の統制を豊臣家にまかそうとしていた兆しもある。このため孫娘である千姫を秀頼に嫁がせている(秀吉の遺言でもあった)。しかし豊臣家の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を恨むようになっていった。さらに豊臣家は万が一に備え多くの浪人を雇い入れたが、その多くは関ヶ原の敗残兵であり家康に恨みをもつものばかりで打倒徳川に染まっていった。こうなると家康も放ってはおけなくなった。さらに徳川家にも問題を抱かえていた。将軍・秀忠と松平忠輝は仲が悪かったし、将軍家でも秀忠の子である徳川家光徳川忠長のどちらが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタン信者の動向も不気味であった。もしこれらが豊臣家と手を結んだら幕府は一瞬にして崩壊してしまうであろう。老いた家康は悩みに悩んでいた。

そのような中、慶長16年(1611年)に加藤清正堀尾吉晴浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長池田輝政らなど、豊臣氏恩顧の有力大名が次々と死去して、次第に豊臣氏の天下に対する影響力は衰えてゆく(あまりにも豊臣系の大名の死が相次いだため徳川による毒殺説もある)。

そして慶長19年(1614年)、最晩年を迎えた家康は豊臣氏を完全に屈服させることを決意、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始する。

豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建し、8月3日に大仏殿の開眼供養を行なうことにした。ところが家康は、方広寺の梵鐘の銘文に不吉な語があると言いがかりをつけた。「国家安康」、「君臣豊楽。子孫殷昌」、「右僕射源朝臣」である。家康は国家安康を家康の名を分断して呪詛する言葉とし、君臣豊楽、子孫殷昌を豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに右僕射源朝臣については、家康を射るという言葉だと解釈したのである。これは完全な言いがかりであり、右僕射源朝臣の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である。

さらに家康は8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行なわせた。その結果、五山の僧侶たちは家康の影響力を恐れて、「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。

これに対して豊臣方は家老の片桐且元と鐘銘を作成した清韓を駿府に派遣し、弁明を試みた。ところが家康は会見せず、清韓を拘束し、且元を追い返した。且元は秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣方は拒否。そして、9月26日に片桐且元が家康と内通しているとして豊臣氏から追放されると、豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、大坂方に宣戦を布告したのである。

[編集] 大坂冬の陣

慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂攻めの途についた。そして家康は20万からなる大軍で大坂城を完全包囲させたが、難攻不落である大坂城を力攻めで落とせるわけが無いことを承知しており、力攻めはせず、大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行なうにとどめた。

11月19日、蜂須賀至鎮らの攻撃で、木津川口の戦いが行なわれ、徳川軍が勝利する。同日、向井忠勝ら徳川水軍の攻撃によって、豊臣水軍は敗れた。11月26日には佐竹義宣らに命じて今福・鴫野の砦を落とさせたが、木村重成らの猛反撃を受けて辛勝するにとどまった。11月29日、家康は池田忠雄らに命じて博労淵砦の奪取を行なわせた。ところが守将の薄田兼相が遊女屋に泊り込んで留守にしていたため、あっけなく奪取した。このように徳川軍は局地戦で勝利を重ねた。ただし、12月4日に行なわれた真田丸攻めでは、徳川秀忠の独断専行による指揮により徳川軍は真田信繁(幸村)の前に大敗を喫した。

とはいえ、家康はこの程度の敗戦を気にすることも無く、12月9日に新たな作戦を始動する。午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲石火矢大筒)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとしたのである。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は、12月19日、家康に和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。というより、家康の脅迫に近かった。実は家康は、和睦の話し合いが行なわれている最中も、大坂城に砲撃を行なわせていたのである。

和議の条件は、大坂城の惣堀を埋め立てるというものであった。ところが家康は、12月23日から2日で惣堀を埋め立てた後、12月25日には腹心の本多正純に命じて大坂城二の丸、三の丸の櫓を全て破却させ、土塁と石垣を崩し、さらに内堀も埋め立てさせたのである。これに対して豊臣方は詰問使を家康のもとに送ったが、家康は聞く耳を持たず、慶長20年(1615年)1月中旬までに、大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となったのである。

[編集] 大坂夏の陣

豊臣方は慌てて埋め立てられた堀を掘り返そうとした。ところが、家康は、それを「豊臣家が戦準備を進めている」という大義名分にし、大坂城内の浪人の追放と豊臣家の移封を要求。更に徳川義直の婚儀の為と称して上洛するのに合わせ、またも近畿方面に大軍を送り込み、豊臣方に要求が拒否されるや侵攻を開始した。

これに対して豊臣方は、大坂城からの出撃策をとった。しかし兵力で圧倒的に不利な豊臣方は、塙直之後藤基次木村重成薄田兼相ら勇将を相次いで失ってしまう。徳川方の大軍ゆえの油断や連携の拙さ、真田信繁毛利勝永らの奮闘もあって、一時は家康本陣の馬印が倒れ、家康自身も自害を覚悟するという危機にも見舞われたが、やがて信繁・勝永らも戦死し、遂に大坂城は落城。5月8日、豊臣秀頼淀殿、そしてその側近らは自害し、ここに豊臣氏は滅亡した(詳細は各項目を参照)。 なお「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあるが、これは主筋であった豊臣家を滅ぼし非難されることを避けるための後の創作であるとも言われている。

その後豊臣大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川家によって新たな大坂城が再建されたり、秀吉に死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊国神社と秀吉の廟所であった豊国廟が閉鎖・放置される、さらには大坂の陣で家康と対立した淀殿の事を「淀君」と蔑称で呼んで(「君」とは当時の遊女の蔑称)、「神君家康に楯突いて豊臣氏を滅亡の道へと進ませた無謀極まりない悪女」のように評価するなど、江戸幕府によって豊臣氏は滅亡後もなおその存在を徹底的に否定される事となる。なお、豊臣氏が名誉を回復するのは明治維新以後の事である。

[編集] 最期

元和元年(1615年)、家康は禁中並公家諸法度を制定して、幕府の朝廷に対する統制と将軍家と天皇家の君臣の別を明らかにした。また、諸大名統制のために武家諸法度一国一城令が制定された。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現した。

元和2年(1616年)、朝廷から太政大臣の位を贈られる、4月17日の巳の刻午前10時ごろ)に駿府城において死去した、享年75。

死因は、天ぷらによる食中毒説がある。鯛の天麩羅死亡説は、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食であり、亡くなったのは4月17日で(いずれも旧暦)、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。諸症状から見て胃癌梅毒と考えられている。尚、家康が問題の天麩羅を食べたのは田中城(現静岡県藤枝市田中)であった。 辞世の句として「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」を詠んだ。

[編集] 年表

和暦 ユリウス暦グレゴリオ暦 月日
宣明暦長暦)
内容 出典
天文11年 1542年 12月26日 生誕  
永禄3年 1560年 5月19日 桶狭間の戦い  
永禄5年 1562年 1月15日 清洲城を訪問。織田信長と同盟結ぶ。  
永禄9 1566年 12月29日  従五位下三河守  
永禄11 1568年 1月11日  左京大夫  
元亀 1570年 6月28日 姉川の戦い  
元亀2 1571年 1月5日  従五位上  
1月11日 侍従  
元亀3 1572年 12月22日 三方ヶ原の戦い  
天正2 1574年 1月5日  正五位下  
天正3年 1575年 5月 長篠の戦い  
天正5 1577年 12月10日  従四位下    
12月29日 右近衛権少将  
天正8 1580年 1月5日  従四位上  
天正10年 1582年 6月2日 本能寺の変  
天正11 1583年 10月5日  正四位下    
10月7日 左近衛権中将  
天正12 1584年 2月27日  従三位参議  
3~4月 小牧・長久手の戦い  
天正14 1586年 10月4日  権中納言  
10月27日 大坂城で、豊臣秀吉に臣従  
11月5日 正三位。  
天正15 1587年 8月8日  従二位権大納言  
12月28日 左近衛大将左馬寮御監両官職兼任  
慶長 1596年 5月8日  正二位内大臣  
慶長5年 1600年 9月15日 関ヶ原の戦い  
慶長7 1602年 1月6日  従一位  
慶長8 1603年 2月12日  右大臣征夷大将軍宣下・源氏長者宣下。  
10月16日 右大臣辞任   
慶長10 1605年 4月16日 征夷大将軍辞職・源氏長者は留任  
慶長19年 1614年   大坂冬の陣  
元和 1615年 7月17日 禁中並公家諸法度制定  
7月 武家諸法度制定  
  大坂夏の陣  
元和2 1616年 3月17日  太政大臣     
4月17日 薨去  
 月 日 贈正一位。  

[編集] 祭祀

日光東照宮 奥社 墓所
日光東照宮 奥社 墓所

家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬された。神号は側近の天海崇伝の間で、権現明神の何れとするかが争われたが天海が勝ち、山王一実神道に則って薬師如来を本地とする権現とされ、1617年元和3)3月9日東照大権現の神号と神階正一位が贈られる。東照社は1645年正保2)11月3日に宮号宣下があり、東照宮となり、さらに東照宮に正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として東照神君権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。

現在も日光東照宮の奥社を墓所とし、他の霊廟としては各地の東照宮、愛知県岡崎市の大樹寺、東京都台東区上野桜木一丁目の寛永寺が有る。

[編集] 評価

江戸時代に家康は「神君家康公」と呼ばれ、彼を評価対象とした評論を公式に発表すれば処罰の対象となったため、必然的に明治時代以降の評価となっている。

[編集] 名君説

  • 家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は極めて完成度の高いものである。江戸幕府は京都大坂博多など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含んだ全国総石高の約4分の1に相当する約700万石 (= 1,262,730 m³ = 1石 = 180.39 リットル)を独占管理し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他大名家の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社朝廷、そして天皇家までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名家が取り潰し(改易)の憂き目にあっている。これは朝廷や天皇家でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった(余談になるが天皇家を法度で明確に取り締まったのは江戸幕府が日本史上初である)。幕府に従順な大名家に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を与えることを許さなかった。このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させ、全国の諸大名・朝廷・天皇家を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが家康の築いた江戸幕府であった。
  • このように徳川将軍家のみを絶対とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」と厳しい批判が多い。しかし、これほどまでの強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国の時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上に及ぶ日本史上類を見ない長期安定政権となったことは否定できない事実である。そのため、この江戸幕府の礎を築き上げた家康の手腕は江戸幕府の功罪は別として今なお高く評価されている。また、この統治基盤が有ったからこそ、明治新政府へ移行が速やかに進められたともされる。さらに後の鎖国政策につながるような閉鎖的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もある。なお、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたもので、彼に対する非難としては的を外している、と主張する者もいる。
  • 家康は息子である秀康、忠輝や創業時の功臣に冷たく当たったなどと言われるが、功臣や秀康に対し、所領の面では十分報いており、本多忠勝に対しては、その子と孫に自分の孫娘(信康の娘と千姫)を嫁がせ、秀康の息子には、勝姫(秀忠の娘)を嫁がせるなど、一定の配慮は示している。忠輝に対しても、改易前には御三家並の所領が与えられていた(越後・高田55万石)。大久保長安事件で改易された大久保氏も忠隣の孫、忠職は大名として存続し、家康の死後は加増が行われ次代である忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている。更には、人材の環流は組織の活性化に必須である。これらの事から一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として理解するべきであろう。
  • 山岡荘八の小説、「徳川家康」では、幼い頃から我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、平和を求める理想主義者として描かれている。この小説によって家康の再評価が始まり、それは現在も続いている。そのため、家康を苦労人・不屈の精神力の持ち主として高く評する者もある。
  • 家康は、自分に屈辱的な大敗を経験させた武田信玄を素直に尊敬し、武田家の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ。 また源頼朝も尊敬し、頼朝の言動が記録された「吾妻鏡」を愛読していた。その反面、信長のように身分を無視した極端な能力主義をとることはなく、秀吉のように金や領地を餌にして釣った人間を重用することもなかった。偉大な先人から学びとり、それを取捨選択してその時流や状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値する。

[編集] 奸君説

  • 司馬遼太郎は家康について記した小説「覇王の家」あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」としているが、「(日本人の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」「大航海時代の潮流から日本をとざし(略)世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸もつくった」と功罪比べてみれば罪の方が大きいと批判的である。そしてその功罪の原因は「徳川家という極端に自家保存の神経に過敏な性格から出て」いて、「かれ自身(家康)の個人的性格から出ているところが濃い」と家康に原因があるとしている。このように司馬は家康について極めて批判的であり、また極端に嫌悪していたようで、そのため司馬の作品中、例えば『関ヶ原』や『城塞』などの中で、家康は「謀略に長けた狡猾な、そして何の面白みもない現実主義者」として描かれる事が多い。なお司馬遼太郎の小説内での家康は、彼を陥れるかのごとく意図的に事実を曲解していることも多く、注意が必要であるが、司馬の家康観は司馬作品の人気の影響もあってか、今なお支持する人間は多い。
  • 家康という人物を示す仇名として、「狸親父」というものがある。これは、家康が謀略に長けていたことを表すものであるが、同時に家康が卑劣な謀略の限りを尽くして天下を牛耳ろうとした卑劣な人物ということをも現す大変不名誉な仇名となっている。事実、方広寺鐘銘問題や関ヶ原までの謀略などにおいても卑劣な色が強く、これが近年の家康に対する評価を大変低くさせている一因となっている。徳川側の史料といえる「徳川実紀」でさえ、家康の謀略の数々を何とか懸命に弁護しているほどである(ただし、大久保長安事件だけに対してはさすがに家康を非難しているものもある)。
  • 家康は信長以上に朝廷をないがしろにしたとされ、実際彼は朝廷を事実上支配下においていた。慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに諸大名の官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に否定している。大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。さらに関ヶ原の後、家康が親豊臣的であった後陽成天皇に譲位を要求した。そして天皇がこれに応じて弟の八条宮智仁親王に皇位を譲ろうとすると、家康はかつて親王が秀吉の猶子になったことがあるとして反対し、慶長16年(1611年)には後陽成天皇を廃して、皇位を政仁親王(後水尾天皇)に譲らせている。家康は信長でさえ行なわなかった天皇の廃立を行ない、さらに後水尾天皇を自らの主導で即位させたのをいいことに、家康存命中から秀忠の5女・和子を入内させ、外祖父として天皇家まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。和子の入内が元和6年(1620年)まで長引いたのは、家康と後陽成天皇の死去があったためである)。
  • 戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗本願寺は第十一世門主顕如の死後、顕如の長男教如と三男准如が対立し、教如が独立する形で東本願寺真宗大谷派)を設立、のちにこれに対して准如が西本願寺浄土真宗本願寺派)を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。今までは若き日に一向一揆により苦しめられた事のある家康が本願寺の勢力を弱体化させるために、教如をそそのかして本願寺を分裂させたものとされてきたが、近年になって真宗大谷派が「教如は家康にそそのかされて東本願寺を設立したのではなく、元々独立志向があった」とする見解を史学研究の結果として正式に表明しており、本願寺の東西分裂が通説のような家康の策謀によるものであったかどうかはっきりしない状況だが、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。そしてこの本願寺の東西分裂によって東西本願寺はお互いに対立関係に陥り、結果戦国時代に諸大名を脅かしたような強大な武装宗教勢力ではなくなってしまった。かつて織田信長は本願寺に対し徹底した強攻策をとり、豊臣秀吉は逆にこれを懐柔しようとしたが、家康の場合はその関与の度合いは不明とは言え、結果的に本願寺を内部分裂させて、彼らの自滅を誘う形でその勢力を大幅に弱体化させることに成功しており、この事も家康の老獪さを表す事象として批判的に捉えられることがある。
  • 次男の結城秀康や六男の松平忠輝らを、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で、常に遠ざけていた(領地を与えたのは自分の息子であるという形式上の対応に過ぎず、秀康も忠輝も家康に終生疎まれたという)。また、嫡男の信康切腹に関しても、家康自らの粛清説も近年唱えられている。さらに徳川四天王である本多忠勝や榊原康政を関ヶ原後に中枢から隔離し、この二人に匹敵するほどの武功派であった大久保忠隣を大久保長安事件で改易・失脚させるなど、息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だった。
  • 徳川将軍家を絶対君主とする、全国の諸大名をはじめ寺社勢力、朝廷そして天皇家までも実質支配下に置き、さらには外交面でも閉鎖的な徹底した中央集権的封建支配体制を築き上げたことは日本の近代化を遅れさせる一因となったと非難している声がある。また、これに関連して「生かさず殺さず」の姿勢で百姓を支配しようとした事やキリシタンに対する厳しい弾圧への批判も多い。
  • 大久保長安事件のとき、すでに長安は死去して埋葬されていたが、家康は長安の半ば腐敗した遺体を掘り起こして斬首し、さらにその首を安倍川の川原で晒し首にしており、この事から「家臣に冷酷で残虐である」と否定的評価をされることがある。
  • 明治維新後に家康の悪評が高まったのは、明治政府江戸幕府を倒して建てられた政権であり、江戸時代を悪とするのが明治政府にとって都合が良いことであったからと言える。特に太平洋戦争前は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が大日本帝国における、帝国主義的な領土拡大と合致し、「朝鮮征伐」と称されるほど是とされていたため、「秀吉は清君、それに背いた家康は奸君」と歪められた評価をされることが多かった。

[編集] 凡君説

  • 天下を平定したとはいえ、信長・秀吉に比べて守旧的な組織しか作りえなかったことから、家康を名君・奸君とするのは過大評価であるとする説もある。家康は、独断で物事を決するよりは、専ら評定を開いては家臣だけで議論をさせ、家臣たちが結論を出したところで決断をするところから、家臣の使い方が多少優れ、たまたま長生きしたために天下を取ることができた凡人に過ぎないとする意見もある。武光誠の『凡将家康天下取りの謎』がこの説を採っており、池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』もこの観点より書かれている。
  • 家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが、これは逆に家康が小心な人物だったのではないかとされている。事実、短気で神経質な一面も持ち、家康は関ヶ原の序盤戦で東軍が不利だったとき、門奈長三郎という小姓の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。古記録にも、「公(徳川家康)、おおいに気をいらだちたまい、左の御指の爪を食い切る。血しぶき噛みたもうように見えさせたもう」とある。

[編集] 一族縁者

家康は2代将軍・徳川秀忠の父、3代将軍・徳川家光の祖父、4代将軍・徳川家綱徳川綱重(6代将軍・徳川家宣の父)、5代将軍・徳川綱吉、8代将軍・徳川吉宗の曽祖父に当たる。

[編集] 逸話

家康公遺訓
「人の一生は重荷を負ふて遠き道をゆくがごとし… 怒りは敵とおもへ」で有名な家康公の「御遺訓」は、明治時代に元500石取りの幕臣、池田松之介が徳川光圀の遺訓とされる「人のいましめ」を元に家康63歳の自筆花押文書との体裁にしたものを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めたものであることを尾張徳川家の徳川義宣が考証した。
また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間の滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。江戸時代は禁書であった。一説には偽書とされている。
健康に気を使った家康
家康は75歳まで生きた。何故かといえば、それは健康にとても気を使っていたからである。もともと凝り性だった家康は食事のつりあい、消化のよさなどを考えて台所に献立を通達していたと言われている。その食事は質素で、戦国武将として戦場にいた頃の食生活を崩さなかった。死因となったともいわれた鯛の天ぷらは、生涯の最初で最後の贅沢であった。また生薬にも精通し、その知識は専門家が舌を巻くほどのもので一説には自分で調合していたとも、孫の家光の大病を治したとも言われるほどである。逆にしばしば水銀など劇薬まがいの薬剤を利用して強過ぎる薬を調合し服用したため、専門家から諌言されていたとも言われる(なお、当時水銀は梅毒の治療薬に用いられていたため、家康が梅毒であったと推測できる)。ちなみに、精力剤である海狗腎は家康の薬の調合に使用されたという記録が残っている。関が原では、家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させている。
鯛の天ぷら(死亡説)
家康の死亡原因のひとつとして、鯛の天ぷらに当たったという説があるが、実際に鯛の天ぷらはあまり体によくない食品との説がある。これは鯛の皮脂に含まれる脂の一種が加熱により人体へ悪影響を及ぼす物質になることによる[要出典]。唐揚げや天ぷらのように衣に包む料理法ではこの物質が料理内に残ってしまう(焼き魚、もしくは加熱しない刺身料理であれば問題はない)。
新しいもの好きの家康
実は、南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった家康。裏がつるつるで滑りやすかった南蛮渡来のくつの裏に日本のわらじからヒントを得て滑り止めの溝を彫らせ滑りにくくしたという挿話もある。
武術の達人であった家康
剣術砲術弓術馬術水術等の武術について一流の域に達していた。剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱新陰流の流れをくむ奥山神影流剣術の奥平久賀に師事、文禄2年(1593年)に小野忠明を200石(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で、文禄3年(1594年)に新陰流の柳生宗矩柳生宗厳と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退)を召抱える、など、生涯かけて学んでいた。ただし、家康は「大将は戦場で直接闘うものではない」と息子にいっていたといわれる。水術についても、69歳の時、駿河の川で見事な泳ぎぶりを家臣に披露している。馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流馬術を学んでいる。
また、力も強く、70歳の時に総長47(1.4m)の火縄銃で鳶を撃ち落としている。
多趣味な家康
歴史小説等で鷹狩りと薬づくり以外無趣味とされることが多い家康であるが、実はそれ以外にもたくさん趣味があった。猿楽(現在の名称は)は、若い頃から世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、「風姿花伝」で学び故実にも通じていた。なお、家康は武士的な気概や人情味のある猿楽が好きであったが家臣が茶の湯(現茶道)等に凝るのを好まなかった。また、香(特に伽羅)を好み、海外まで使いを出している。囲碁本因坊算砂に師事、特に浅野長政とはよい碁敵だった。
家康の身長
家康の身長は推定156~160cmと言われている。また肥満傾向にあり、胴回りは120cmと推測されている。
師は武田信玄
武田信玄には大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。天正10年(1582年)に武田勝頼が討たれた後、織田信長に武田残党狩りを命じられた際も、信長の命令を無視し武田の遺臣をかくまった。自分の息子信吉に武田氏を継がせ、武田信吉と名乗らせ水戸藩を任せてもいる。有名な井伊直政の赤備えも、武田の猛将山県昌景にあやかったものである。それとは反し、幼馴染であり盟友であった織田信長に対しては反応が鈍く、政策に信長を手本にしたようなものは少ない。しかし、後詰め決戦など信長の戦術を手本としたものが多いとする意見もある。江戸幕府開設の際に家康が行った、天皇の権威を利用して権力基盤を確立する手法は、本来信長が採用し秀吉が継承したものであるとも言われるが、他の戦国大名も程度の差はあれ行っていた事でもある。晩年昔話を好んで家臣に聞かせた家康だが、信長に対してはほとんど口を開こうとしなかったとも言われている。ただしこれは秀吉同様、織田家の権力を乗っ取る形で政権を確立したことへの後ろめたさであるとする意見もある。また豊臣家を出奔した信長の弟有楽斎を家康は保護しているが、有楽斎は家康が豊臣家に送り込んだスパイだとする説もある。
一富士二鷹三茄子
初夢で見ると縁起がいいものとされる、富士山茄子家康の好きなものである。晩年、駿府に隠居城を構えたのは富士山の眺めがいいから。は趣味が鷹狩りである事。茄子家康の無類の大好物で、天下を獲った男の愛する品と言うのが、一富士二鷹三茄子の由来である。
家臣と家康
多くの有能な家臣に恵まれた家康は率直な物言いをする者を好んで重用した。時につかみ合いの喧嘩をし、罵りあった事もあると言う。
家康が尊敬していた人物
家康は、高祖張良韓信太公望文王周公源頼朝足利尊氏、などの人物を尊敬していたと伝えられている。
家康が好んだ書物
家康の愛読書は、論語中庸史記漢書六韜三略、貞観政要延喜式、吾妻鑑などの書物だと伝えられている。
家康の手相
手相占いで言う「頭脳線」と「感情線」が1本に交わって、頭脳線と感情線の区別がつかなくなっている人がたまにいるが、家康もこの手相だったと伝えられている(ちなみに、手相占いの世界では、この手相の人は、冷静沈着で感情に流されないといわれている)。
秀吉からの問い
「徳川の宝はなにか?」の問いに対し、「500騎の三河武士である」と返している。

[編集] 作品

[編集] 脚注

  1. ^ ただし家康は天正9年(1581年)に武田領の高天神城を落城させた際に、捕虜は全て助命したものの、人質時代の家康につらく当たった孕石元泰(今川氏旧臣)に対してのみ切腹させた。元来、家康は旧怨を以て人に報いるということをしない性質で、彼にしては稀有の処分である。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
松平広忠
松平宗家歴代当主
1549~1570
次代:
松平信康
江戸幕府将軍
家康 | 秀忠 | 家光 | 家綱 | 綱吉 | 家宣 | 家継 | 吉宗 | 家重 | 家治 | 家斉 | 家慶 | 家定 | 家茂 | 慶喜

徳川氏 - 将軍家

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