松平忠輝 (旗本)
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松平 忠輝(まつだいら ただてる、寛文10年(1670年) - 享保3年12月24日(1719年2月12日)は、江戸幕府旗本。通称は左内(さない)、造酒丞(みきのじょう)。忠臣蔵事件で吉良邸討ち入りに加わらなかった兄岡林杢助を切腹させ、その介錯をした。
旗本松平(櫻井)左門忠治の五男として生まれる。母は不詳。兄に松平孫左衛門忠郷、岡林杢助直之(赤穂藩重臣岡林直宗の養子)がいる。(ただし享年から逆算すると次兄直之より忠輝のほうが年上になる。また長兄の忠郷よりも庶子の忠輝のほうが将軍への拝謁が早い。ここから考えて忠輝は庶長子で、正室の子である二人の弟に落とされたのではないかと思われる)
貞享3年(1686年)閏3月14日にはじめて将軍徳川綱吉に拝謁。元禄3年(1690年)12月12日、父忠治の家督1000石300俵のうち、1000石は兄忠治が継いだが、300俵はこの忠輝に与えられ、分家の旗本家を興した。元禄4年(1691年)3月29日に桐間番となり、11月7日には御次番に転じたが、12月2日に職を免じられた。元禄5年(1692年)3月18日に書院番となり、元禄9年(1696年)12月22日には将軍より精勤ぶりを賞されて黄金二枚を与えられた。
元禄14年(1701年)3月14日、次兄岡林杢助が仕えていた赤穂藩主浅野長矩が江戸城で高家吉良義央に対して刃傷に及んで切腹改易となると、杢助は大石内蔵助の義盟に加わらずに赤穂を離れ、長兄松平忠郷のもとへ身を寄せた。ところが、元禄15年(1702年)12月14日に大石内蔵助らによる吉良家討ち入りがあると、忠郷は「藩の重臣だった者が、この義挙に加わらんとは何事か!」と激怒。さらに元禄16年(1703年)12月28日には杢助に切腹するよう命じ、介錯は弟であるこの忠輝がつとめた。
宝永元年(1704年)11月14日に幕府の役職を辞し、享保3年(1718年)12月24日に死去した。享年49。深川の霊巌寺に葬られた。妻は佐藤氏の娘。その間に生まれた子松平忠恒が家督を継いだ。