徳川綱吉
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時代 | 江戸時代前期・中期 | |||
生誕 | 正保3年1月8日(1646年2月23日) | |||
死没 | 宝永6年1月10日(1709年2月19日) | |||
別名 | 徳松(幼名)、松平右馬頭、館林参議(通称) | |||
諡号 | 常憲院 | |||
戒名 | 常憲院殿贈正一位大相国公 | |||
墓所 | 東叡山寛永寺 | |||
官位 | 従四位下右近衛中将兼右馬頭、正三位、参議、 従二位権大納言、正二位内大臣、右近衛大将、 征夷大将軍、右大臣、贈正一位太政大臣 |
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藩 | 上野国館林藩主(1661年~1680年) | |||
氏族 | 徳川氏(館林徳川家→徳川将軍家) | |||
父母 | 徳川家光、桂昌院、徳川家綱 | |||
兄弟 | 千代姫、家綱、亀松、綱重、綱吉、鶴松 | |||
妻 | 鷹司教平の娘・鷹司信子、 小谷正元の娘・瑞春院、清閑寺熙房の娘・寿光院、 日野弘資の養女・清心院、他 |
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子 | 鶴姫(徳川綱教室)、徳松、家宣、喜知姫、 八重姫(徳川吉孚室)、松姫(前田吉徳室)、 竹姫(島津継豊室)、尊統入道親王 |
徳川 綱吉(とくがわ つなよし、正保3年1月8日(1646年2月23日) - 宝永6年1月10日(1709年2月19日)、在職:1680年-1709年)は日本の武士・江戸時代の幕府第5代将軍である。3代将軍家光の4男、幼名は徳松。母は京堀川の八百屋お玉(桂昌院)。正室は鷹司教平の娘信子。側室に瑞春院(お伝)、寿光院、清心院、お手つきに牧野成貞の妻の阿久里とその娘の安など(後世の創作とも考えられる)。子は、徳川徳松、鶴姫。俗に、柳沢吉里が綱吉の落胤であると言われるが、実際には疑わしい。
目次 |
[編集] 生涯
江戸城に生まれる。幕府創業に尽力した2代将軍・徳川秀忠は祖父。初代将軍・徳川家康は曾祖父。慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し、家臣団を付けられる。同月には将軍家光が死去し、8月に兄の家綱が将軍宣下を受け、綱吉は将軍弟となる。承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任。将軍家綱から偏諱を受け名を「綱吉」と改め、松平を名乗る。
明暦3年(1651年)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失し、9月には神田へ移る。寛文元年(1661年)8月、上野国館林藩主として城持ちとなり、所領は25万石となる(館林徳川家)。が創設12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称される。1670年に牧野成貞を館林藩家老3,000石に抜擢する。
延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に世嗣がなかったことから、その養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、5月、家綱が40歳で死去すると、将軍宣下を受け、内大臣となる。
家綱時代の大老酒井忠清を廃し、自己の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老とした。その後、忠清は病死するが、酒井家を改易にしたい綱吉は、大目付に「墓から掘り起こせ」などと命じて病死かどうかを異常なまでに詮議させたという。しかし証拠は出せず、結局、酒井忠清の弟酒井忠能が言いがかりをつけられて改易されるにとどまった。
綱吉は大老堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後国高田藩の継承問題を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、「そうせい様」と陰口された家綱時代に没落した将軍権威の向上に努めた。また幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらった。荻原重秀もここから登用されている。また外様大名からも一部幕閣への登用が見られる。しかし一方で将軍権威向上のためにも大名や旗本の改易を数多くおこない、山内豊明・喜多見重政・坂本重治はじめ気まぐれに取り立てて、気に入らなくなると改易するような理不尽なケースも多かった(ただし綱吉時代に改易にされたのは中小の藩であって、大藩を改易することはなかった。大藩の部類に属する越後高田藩・越前松平庶流については、改易をしたが翌年に、減知のうえ家名再興を許している)。
また戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。これは父徳川家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は、林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義し、さらに学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。この儒学の影響で歴代将軍の中でももっとも尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査のうえ、修復が必要なものをリストアップして、巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公家達の所領についても概ね綱吉時代に倍増している。またのちに赤穂藩主浅野内匠頭が大名としては異例の即日切腹にされたのも朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようだ。綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳州・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなり、この時代、儒学が隆盛を極めた。
綱吉の治世の前半は基本的には善政として天和の治と称えられている。
しかしながら、1684年(貞享元年)堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず、側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて母桂昌院の政治への介入を許した。母桂昌院とゆかりの深い本荘家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったという。
この頃から後世に“悪政”といわれる政治を次々とおこなうようになった。有名な生類憐みの令も、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとする説がある(隆光と生類憐みの令の関係を否定する説もある。なお、一般的に信じられている「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で、再考がされつつある。詳しくは同項目を参照のこと)。また大奥の奢侈を許して幕府の財政を悪化させ、勘定奉行荻原重秀の献策による貨幣の改鋳を実行したが、本来改鋳すべき時期をやや逸していたこともありかえって経済を混乱させている。そもそも後期の綱吉に前期のような政治への積極性はほとんど見られなくなった。
嫡男の徳松が死去した後の将軍後継問題では、娘の鶴姫を嫁がせていた御三家の紀州徳川家の徳川綱教が徳川光圀の反対の中、候補に上がるが綱教は死去し、6代将軍は甥で甲斐国甲府藩の徳川家宣(綱豊)に決定する。1709年に死去、享年63。家宣が将軍になると「生類憐みの令」はすぐに廃止されたという。しかし殺生である鷹狩りを実施することはなく、復活は徳川吉宗が8代将軍になってからのことである。ちなみに吉宗は天和の治を行った綱吉に対して敬愛の念を抱き、吉宗の享保の改革の中にもその影響が見られると言われている。7代将軍・徳川家継の大叔父で松平清武は甥に当たる。
柳沢吉保の側室染子は、綱吉からの拝領妻であるが、その妻の出産した男子である柳沢吉里は、綱吉の実子であるともいう。事実であれば、跡継ぎの男子に悩んだ綱吉としては、なんとも皮肉なことになってしまったことになる。綱吉は、柳沢家に、特に松平姓を与えて、連枝の待遇としたが、これがその事情を雄弁に物語っているという指摘もある。
[編集] 官職位階履歴
※日付は旧暦。
- 1653年(承応2年) 8月12日元服。同日従四位下右近衛権中将兼右馬頭に叙任。さらに、同月17日には正三位に昇叙。
- 1661年(寛文元年) 12月28日、参議補任。
- 1680年(延宝8年) 5月7日、将軍後継者となり、同日、従二位権大納言。ついで、8月21日、正二位内大臣兼右近衛大将。征夷大将軍・源氏長者宣下。
- 1705年(宝永2年) 3月5日、右大臣
- 1709年(宝永6年) 1月10日、薨去。ついで、同月23日、贈正一位太政大臣。
[編集] 綱吉の評価
綱吉の行状については価値の低い資料による報告が誇張されて伝えられている部分もあり、近年では綱吉の政治に対する評価の再検討が行われている。
綱吉は「側近の寵臣以外の意見を軽視し、悪法で民衆を苦しめた」という否定的評価がなされる一方で、1691年と1692年に江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」といった評価も受けている(ケンペル著『日本誌』)。ケンペルの綱吉観や両者の交流については中公新書刊行「ケンペルと徳川綱吉」(ベアトリス・M. ボダルト・ベイリー・1994年 ISBN 4-12-101168-6)に詳しい。
綱吉の治世下は、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期であり、好景気の時代だったことから優れた経済政策を執っていたという評価もある。また、治世の前期と後期の評価を分けて考えるべきだと言う説もある。前期における幕政刷新の試みはある程度成功しており、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗も綱吉の定めた天和令をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、その施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いと指摘されている。
綱吉の治世の評価が低いことについては、不幸な偶然もいくつかあると指摘されている。具体的には、1698年(元禄11年)の勅額大火(数寄屋橋門外より出火し上野を経て千住まで300町余を焼失、死者3,000人以上)や1707年(宝永4年)の富士山噴火などである。それらは、現代では治世の評価を左右するものとは考えにくいが、当時は「天罰」と受け止められてもいたしかたないものであった。
また、綱吉の治世の間に、のちに忠臣蔵として語り継がれることになる元禄赤穂事件が発生している。事件が「忠臣蔵」として脚色されていく過程で、赤穂藩士が武士の鑑として持ち上げられる一方、吉良は悪役として描かれるようになる。それはすなわち、浅野に切腹を申しつけ、吉良をおとがめなしとした幕府の判断への強い批判という構造となった。このことも、綱吉の治世の評価を実際以上に低めていると言える。
さらに、綱吉は、江戸時代きっての有名人である徳川光圀(1628年-1701年)とほぼ同時代人であったという不運もある。綱吉と水戸光圀はいくつかの面で対立していたという記録があることから、フィクションの水戸黄門の中で悪役を割り当てられている。また、光圀が大日本史を編纂し、綱吉が自ら易経を講じるなど、類似した方向性を持っていたことから、水戸黄門ファンの中には、黄門を持ち上げるためにことさらに綱吉をけなすという風潮もある。
綱吉再評価に関する文献として、代表的で入手が容易なものとして、文春新書刊行「黄門さまと犬公方」(山室恭子・1998年 ISBN 4-16-660010-9)が挙げられる。また、2004年12月28日にフジテレビ系列で放送されたドラマ「徳川綱吉 イヌと呼ばれた男」も、この再評価に連なる系列のものである。
[編集] その他
「大樹寺に収められている歴代将軍の位牌は、将軍の身長にあわせて作られている」という説があり、そこから「身長が130センチ強しかなかった」という『低身長症説』が出てきている。綱吉の位牌の高さは124cmであるが、増上寺に葬られて改葬の際に遺骨の身長が計測された5人の将軍の場合は遺骨と位牌のサイズの差は5cm以内に収まっており、綱吉についても低身長症(軟骨無形成症)であったということは言えるのではないか、という説である。
「七五三」は徳松の健康を願ったのが始まりの一つとされるが、その当の徳松が夭折したのは何とも皮肉である。
一説として、妻・阿久里と娘を犯された牧野成貞は、自身の代で牧野家を断絶させると言ったとされる。また、柳沢吉保が送り込んだ女と綱吉が交合中に「吉保に甲斐一国を与える」と確約した(綱吉の死によって反故になる)事から、以後将軍が交合する時には、屏風の後ろに監“聴”役二人を置き、二人の証言が一致し御年寄(大奥の最高権力者)が承認するまで徹底的に話し合ったという(御台所には監聴は付かなかったとされる)。更に異説として、綱吉は衆道をたしなみ、吉保に命じて少年を送り込ませ男色を楽しんだともいう。
[編集] 綱吉の子
- お伝の方(瑞春院)所生
- 綱吉の養子
- 松姫(磯姫・光現院):徳川綱誠娘、前田吉徳室
- 八重姫(養仙院):鷹司輔信娘、徳川吉孚室
- 竹姫(浄岸院):清閑寺熙定娘、島津継豊室
- 喜知姫(知法院):徳川綱誠娘
- 尊統入道親王:有栖川宮幸仁親王王子、霊元天皇養子
[編集] 関連項目
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