板倉重良
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板倉 重良(いたくら しげよし、寛永15年(1638年) - 元禄10年(1697年))は、三河国深溝藩主、三河中島藩主、下野国烏山藩主・板倉重矩の長男。母は小出吉親の娘。正室は池田恒元の娘。子は板倉重宣(長男)。従五位下、能登守、伯耆守。
板倉重矩の嫡子だったが、寛文12年(1672年)廃嫡された。翌年、父が死去し弟の板倉重種が家督を継いだが、天和3年(1683年)に重種が隠居すると、重良の長男・重宣と相続をめぐって騒動となる。幕府の裁定により、重矩の遺領5万石のうち3万石を重種、2万石を重宣が相続することになった。重宣は上総国高滝藩主となる。
翌貞享元年(1684年)、重宣が父に先立ち死去すると、母の実家である小出家から板倉重高を養子に迎えた。元禄10年(1697年)に死去。