桓叔
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桓叔(かんしゅく、紀元前804年 - 紀元前738年)は中国春秋時代の晋の分家、曲沃の初代当主(在位 紀元前745年 - 紀元前738年)。姓は姫、諱は成師、諡は桓。穆侯の三男。
紀元前804年に穆侯の三男として誕生した桓叔は、同年に穆侯が千畝に戦勝した記念の意味合いを込めて、成師と名づけられた。この命名について、「弟は軍事において成功し、かつ兄の仇(後の文侯)との対極の名で、いずれは弟の家が兄の家を凌ぐだろう。」と予知する者があった。その為、兄の文侯は常に成師を警戒し、在位中、彼には一切の地位も食邑も与えなかった。しかし、成師もその予知を知っており、兄文侯を刺激しないよう常に控えめな態度を取り続けた。彼のその恭謙な態度や才能に魅かれる大夫や国民も多く、成師は着実にその支持を集めていた。
そして紀元前746年に文侯が没し、息子の昭侯が即位すると、晋の大夫達は昭侯を動かし、翌紀元前745年、成師は晋の首都翼よりも大きい食邑・曲沃を下賜され、彼が曲沃へ移ると同時に、彼を慕う多くの大夫や国民達も曲沃へ移住した。
その後成師は、翼宗家より彼の監視役として送り込まれた欒賓(欒書の先祖)を曲沃の正卿に任じるという大胆な人事を行い、その声望を更に高めていった。
そして紀元前739年、翼宗家の昭侯が、大夫の潘父に暗殺される事件が勃発し、潘父は成師に対し翼宗家を継ぐよう要請する。それを受けて成師は翼へと進軍するが、翼宗家は潘父を処刑して孝侯を立てた為、成師は曲沃へと退却した。
翌紀元前738年、失意に沈んだ成師は、晋再統一の夢を息子の鱓(荘伯)、孫の称(武公)に託して逝去した。享年66。
死後、「桓」を諡され、桓叔と呼ばれる。