森信三
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森 信三(もり しんぞう、1896年9月23日 - 1992年11月21日)は哲学者・教育者。
1896年(明治29年)、愛知県、知多半島の武豊(たけとよ)に父・端山(はしやま)俊太郎、母・はつの三男として生まれる。2歳で岩滑(やなべ、現在の半田市)の森家に養子に出され、以来森姓となる。
広島高等師範学校英語科を経て1923年(大正12年)、京都帝国大学哲学科に入学し、主任教授西田幾多郎の教えを受け、卒業後は同大学大学院に籍を置きつつ天王寺師範学校(現大阪教育大学)の専攻科講師となる。1939年(昭和14年)に旧満州の建国大学に赴任するが、敗戦後の1946年(昭和21年)に帰国、1953年(昭和28年)、神戸大学教育学部教授に就任。同大学退官後の1965年(昭和40年)には神戸海星女子学院大学教授に就任。1975年(昭和50年)「実践人の家」建設。1992年(平成4年)逝去。おもな著書に『修身教授録』『哲学叙説』『恩の形而上学』などがある。ちなみに「信三」は戸籍上は「のぶぞう」と読み、「しんぞう」は戦後帰国した際に他人が読みやすいという理由から名乗った通称である。 半田市名誉市民。半田市がつくった新美南吉記念館の一室に森信三記念室が設けられている。
森信三はその生涯から「人生二度なし」の真理を根本信条とし、「全一学」という学問を提唱した。 「全一学」とは、
- 東西の世界観の切点を希求するもの
- 宇宙間に遍満する絶対的全一生命の自証の学
- 世界観と人生観との統一の学
など12項目以上の定義にもとづくもので、要約すると「宇宙の哲理と人間の生き方を探求する学問」となる。 森はこれらの思想をもとに全国各地で講演を行なうとともに自ら実践を重ね、日本民族再生に大きく働きかけた。
森の理論は実践から生まれた具体的なものが主で、「立腰」論はその最たる例の一つである。「立腰」論とは「腰を立てる」の意で、森はこれを「人間に性根を入れる極秘伝」としている。
[編集] 著作
- 森信三全集 全25巻
- 続森信三全集 全8巻
- 森信三講演集 全2巻
すべて自費出版、出版元の実践社は、森信三の子息が会社勤めを辞めて、父のために始めたもの。
[編集] 外部リンク
- 社団法人「実践人の家」 - 森信三に関する情報が掲載されている。