毛利斉広
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毛利 斉広(もうり なりとう、文化11年5月16日(1814年7月3日) - 天保7年12月29日(1837年2月4日))は、長州藩の第13代藩主。父は第11代藩主・毛利斉熙(斉広は次男)。母は池上氏。正室は徳川家斉の19女・貞惇院(和姫)。側室に本多氏(勇信院)。子に都美子(毛利敬親室)。官位は従四位下、左近衛権少将。
文化11年(1814年)5月16日生まれ。1822年6月、毛利斉元の養嗣子となる。天保元年(1830年)、斉広と名乗って叙任する。天保7年(1836年)9月8日に斉元が死去したため、同年12月10日に後を継ぐが、20日足らずの12月29日に23歳の若さで死去する。文化人としては有能で、林述斎に師事して「与人論」や「世子告文」など多くの書物を残している。後を養嗣子の毛利敬親が継いだ。
法号:崇文院天常端誠。墓所:東京都港区愛宕の青松寺。萩市椿の大照院。
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