民主主義擁護連絡協議会
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民主主義擁護連絡協議会(みんしゅしゅぎようごれんらくきょうぎかい)とは、アメリカ施政権下の沖縄において、当時那覇市長だった瀬長亀次郎を支援するべく、1956年に結成された政治団体。略称は「民連」。
[編集] 概要
那覇市長だった当間重剛が、琉球列島米国民政府により行政主席に任命されたため、那覇市長を辞任し後任の市長を選ぶことになった。そして1956年12月の那覇市長選挙に沖縄人民党の瀬長亀次郎が当選したことが発端である。
米国民政府は、この結果に強い衝撃を受け、琉球銀行を通じて融資を凍結したり、那覇市への補助金を打ち切るなどの市政妨害工作を行った。那覇市議会の保守系議員は瀬長市長の辞任を要求し、1957年6月17日に圧倒的多数(24対6)で市長不信任案を可決した。瀬長市長は市議会の解散で対抗し、8月4日に市議会議員選挙が行われることになった。
反市長派は、「那覇市政再建同盟」を結成し結束力の強化を図った。これに対抗すべく、人民党は社会大衆党と提携、「民主主義擁護連絡協議会」を結成し、選挙に臨んだ。
結果は、民連系が12議席、同盟系が17議席、中間派が1議席となり、不信任案の再可決に必要な3分の2以上をとることが絶望的な情勢になった。
反市長派は予算案審議引き延ばし戦術を図ったため、瀬長市長は専決処分で対抗、反市長派は専決処分無効の訴えを起こすなど市政は泥沼化した。
米国民政府は突如、関係法令を改正する布令を公布した。その内容は、
- 不信任案の再可決に必要な基準を過半数に引き下げ
- 前科があり、まだ特赦を受けていない者の被選挙権剥奪
これにより、瀬長市長は市長の座を追われるだけでなく、あらゆる公職から締め出されることになった。(瀬長は人民党事件で前科が付いていた。)
また、これら一連の民連の盛り上がりのことを「民連ブーム」と呼んでいる。