水野重央
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水野 重央(みずの しげなか、元亀元年(1570年) - 元和7年11月12日(1621年12月24日))は、紀伊新宮藩の初代当主(幕藩体制下で、新宮藩は藩主として認められなかった)。ただし常陸国内に1万石、遠州浜松藩にも所領を領していたときなどは、藩主として認められているとも言われている。室は安部信盛妹(実は佐久間信盛の讒言で織田信長に殺された水野信元の6女)。子に水野重良、水野定勝。松平康信室、大関政増室、水野義重室、小笠原義治室、有馬豊長室となった娘5人。名は重仲とも。
元亀元年(1570年)生まれ。父は水野忠政の八男水野忠分。兄は水野分長(尾張緒川藩、後に三河新城藩の初代領主)。重央は徳川家康の母方の従弟に当たるという縁故から、早くから家康に仕えて重用された。1608年には家康の子・徳川頼宣の後見人としてその補佐に当たり、常陸国内に1万石を与えられた。1609年、頼宣が駿河、遠州に移されると、重央も遠州浜松に移ることとなって2万5000石を与えられた。1617年には3万5000石に加増されている。
1619年、頼宣が紀伊和歌山藩(紀州藩)に移ると、重央は新宮に3万5000石を与えられ、安藤直次と共に頼宣の附家老としてその補佐に務めた。だが、附家老という身分上、大名としての資格を失う事になった。元和7年(1621年)11月12日に死去し、後を子の重良が継いだ。享年52。法号は全龍院殿日山常春大居士。墓所は和歌山市直川の全正寺。
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