河合曾良
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河合 曾良(かわい そら 慶安2年(1649年) - 宝永7年5月22日(1710年6月18日))は江戸時代の俳諧師。松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子。
信濃国下桑原村(現長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれる。幼名は与左衛門。その後、両親が亡くなったため伯母の養子となり、岩波庄右衛門正字と名乗る。12歳の時、養父母が亡くなったため伊勢国長島の親戚の元に引き取られる。
1668年頃より長島藩主松平康尚に仕え、河合惣五郎を名乗る。1681年頃に致仕。江戸の吉川惟足に吉川神道を学ぶ。1689年、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅に同行。
1709年に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、翌年に壱岐国風本(現長崎県壱岐市勝本浦)で病没。享年62。戒名は賢翁宗臣居士。墓所は壱岐島の能満寺。1740年、没後30年してから故郷・諏訪の正願寺にも墓標が建てられた。
1994年5月24日に旧勝本町と諏訪市が河合曾良の終焉の地と生誕の地としての縁で、友好都市提携を結び、旧勝本町が旧壱岐郡3町と合併後も壱岐市に受け継がれる。
[編集] 著名な句
- くまの路や 分(わけ)つゝ入れば 夏の海
- 卯の花に 兼房見ゆる 白毛(しらが)かな
- 春にわれ 乞食やめても 筑紫かな
- 松島や 鶴に身をかれ ほとゝぎす
- 湯殿山 銭ふむ道の 泪かな
- 行き行きて たふれ伏とも 萩の原
- かさねとは 八重撫子の 名成べし