浅井くす
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浅井 くす (あざい くす 生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代初頭にかけて生きた女性。松の丸殿の侍女(姥)で、豊臣秀吉にも近侍した。
近江の戦国大名浅井長政の庶子で、母は「そうしんさま」こと本念宗心大姉(『三方郡誌』)。 異母姉妹には茶々姫(淀の方)、初姫(常高院)、江姫(崇源院)など。 松の丸殿、京極高次、京極高吉らはいとこ。彼らの母養福院は父方の伯母に当たる。
目次 |
[編集] 生涯
- 三方郡金山村の曹洞宗寺院龍澤寺を再興した記録が残る(『三方郡誌』)。
- くすの幼少時の記録は残らないが、松の丸殿に仕えたところを見ると、浅井宗家滅亡後は伯母である養福院の縁で引き取られたのではないかと考えられる。
[編集] くすと龍澤寺
[編集] くすの出生
- 龍澤寺はもともと宝応寺と言ったが、秀吉の侍女が再興したという記録が『三方郡誌』に残る。松の丸殿の侍女として秀吉に近侍したようである。
- 同寺に「浅井太守 天窓芳清大居士 本念宗心大姉 神祇(正しくは示に氏)」と記された位牌が残っており、これがくすが浅井長政の娘であるという根拠となっている。
- 晩年までに出家しているらしい。おそらく松の丸殿の出家と同時期か。
- 戒名は寶(放)光院殿心室理性尼大姉。(龍澤寺の位牌には「当寺開基 寶光院殿心室理性尼大姉 淑霊」と残る。
- 没年ははっきりしないが、寛永3年(1791年)に龍澤寺にてくす木像が三方郡久々子(くぐし)村の斎講の老婆たちが施主となって造像されているため、この年までには亡くなっている。なお、木像裏には「寛永三亥年 開基真像 現住大安代 施主久々子村 斎講 婆々中」と記されている。
[編集] 秀吉との関係
- 同寺には「寛政二年戌戴 大閤真像 現在大安叟 願主前龍之叟」と記された秀吉木像が残っている。(造像は寛政2年(1790年)でくす木像の前年)また秀吉の位牌もあり、「勅賜豊国大明神前大閤相国国泰寺殿雲山俊龍大居士尊儀」と記されている。
- なお、同寺には寺の権利を保障した秀吉の朱印状も残っており、くすが松の丸殿の側近として秀吉にとっても大きな働きをしていたことが伺われる。
[編集] くす発給黒印状
- くすが龍澤寺に当てた黒印状に「そうしんさま」の記載があり、これがお市の方以外の長政の妻ではないかと考えられている。「そうしんさま」の素性は明らかではないが、この文書が発給された天正20年(1592年)には亡くなっていることが分かる。
[編集] 備考
- 北庄城落城後、茶々、初、江の三姉妹を引き受けた可能性が松の丸殿に指摘されているが、実宰院の昌安見久尼(伯母)同様、従姉松の丸殿だけでなく、近侍していた伯母養福院、姉くすなども非常に近しい血縁関係であるためその可能性は無視できない。
- くすの働きについて詳細は残らないが、可能性としては秀吉の没後、松の丸殿が大坂城へ足を運んでいること、秀頼より文書が送られていること、また豊臣国松の刑死後遺体を引き取ったあたりか。
[編集] 参考文献
- 大阪城天守閣「特別展 戦国の女たち ―それぞれの人生―」(1999年10月9日)