渡辺玄対
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渡辺 玄対(わたなべ げんたい、寛延2年(1749年) – 文政5年4月3日(1822年))は江戸時代中期の日本の画家。
名は瑛、字を廷輝、号は玄対のほかに松堂・林麓草堂。江戸生まれ。
画家の渡辺湊水を養父とする。中山高陽から南画の画技を学び、湊水が亡くなると4つ下の鈴木芙蓉の師となった。また谷文晁の師としても知られるが後には文晁の弟子に数えられていることから、師弟関係というよりむしろ相互に影響を与えあった関係と見るべきである。
高陽から諸派兼学の教えを忠実に受け継ぎ、中国の古書画を臨模しその長所を学びとった。特に明末清初の画家 藍瑛に私淑して名前を瑛としたほどであった。藍瑛は当時中国の代表的画派である浙派と呉派を折衷し南北合法といわれた一大流派の創始者である。藍瑛の南北合法は玄対のみならず文晁、渡辺崋山らに継承されていく。
現在確認される作品数が充分でないが、南宗画と北宗画を折衷した南北合法的な画風は江戸南画の萌芽を思わせる。主に山水画・花鳥画を得意としたが広い画域があったものと思われる。
享年75。
目次 |
[編集] 作品
[編集] 刊行物
- 『玄対画譜』 中国画と落款の縮図集
[編集] 関連文献
- 雲室上人『雲室随筆』
- 松岡毅軒『画苑小伝』