片倉重長
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片倉 重長(かたくら しげなが、1585年(天正13年) - 1659年5月16日(万治2年3月25日))は、仙台藩伊達氏の家臣。伊達政宗の軍師として仕えた片倉景綱の子。白石城主。名ははじめ重綱だったが、三代将軍徳川家光の嗣子家綱の諱字を避けて重長と改名した。妻は真田信繁(幸村)の娘並びに松前安広(松前藩藩主松前慶広の子)の娘。片倉景長の父。通称は片倉家代々引き継がれた小十郎。
1614年からの大坂の陣では、病中にあった父に代わって政宗に従い、敵将の後藤又兵衛を討ち取るなどの功績を立て大いに名声を上げた。1615年の父の死後、その後を継いだ。父に劣らぬ智勇兼備の名将で、『鬼の小十郎』と称された。
大坂の陣の後、真田信繁(幸村)の娘を後室に迎え入れている。一説には奮戦する重長を大坂の戦場で見た真田信繁(幸村)が、この将ならばと、片倉の陣に矢文を送り婚姻の儀申し入れたと言われている。
その後、君主を失った真田家家臣を保護したと伝えられる。
[編集] 逸話
- 重長の母が重長を懐妊した時、主君伊達政宗は前年に家督相続したばかりでまだ嫡子がなかった。この為、父・景綱は、「伊達家に嫡男誕生までは片倉家に慶事まかりならぬ」として生まれた子は直ちに圧殺するつもりであった。これを聞いた政宗は、「其方の言い分もあろうが思いとどまってもらえないだろうか。子を殺すようなことがあれば其方を恨むぞ。どうかどうか助けてやってほしい」という書状を景綱に出している。
- 男にも惚れられるほどの美青年であり、男色家として知られる小早川秀秋が彼をつけまわしたとの話が残る(『片倉代々記』中『二代重長譜』にこの記述がある)