田村宗良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田村 宗良(たむら むねよし)は、江戸時代の大名。陸奥岩沼藩の初代藩主。
|
||||
時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 寛永14年4月19日(1637年6月11日) | |||
死没 | 延宝6年3月26日(1678年5月16日) | |||
別名 | 亀千代(幼名)、右京(通称) | |||
官位 | 従五位下、右京亮、隠岐守 | |||
藩 | 陸奥岩沼藩主 | |||
氏族 | 伊達氏、鈴木氏、田村氏 | |||
父母 | 父:伊達忠宗、母:三田村氏(ふさ) | |||
妻 | 正室:山口重如の娘・糸 | |||
子 | 田村建顕(次男)、田村顕寛(三男)、 田村顕始(四男)、田村顕晋(五男)、 田村宗常(六男)、娘(永井直種正室) 計5男7女 |
寛永14年(1637年)4月19日、仙台藩の第2代藩主・伊達忠宗の三男として生まれる。伊達政宗の孫に当たる。寛永16年(1639年)、父の命令で1500石の仙台藩の重臣・鈴木元信の家系である鈴木氏の名跡を継いだ。慶安2年(1649年)に元服して鈴木宗良と名乗る。承応2年(1653年)、愛姫(政宗の正室で忠宗の生母、宗良の祖母)の遺言により田村氏の家督を継ぐこととなり、万治3年(1660年)に仙台藩主に幼少の伊達綱村が就くことになると、綱村より名取郡岩沼に3万石を分与されて岩沼藩の初代藩主となった。そして、幼少の綱村の補佐役も務めている。万治3年(1660年)12月に従五位下、右京亮に叙任し、寛文10年(1670年)に隠岐守に叙任する。
しかし寛文11年(1671年)、伊達騒動(寛文事件)が起こると、幕命によって連座処分により閉門に処された。寛文12年(1672年)に罪を許され、延宝6年(1678年)3月26日に江戸で死去した。享年42。墓所は東京都港区高輪の東禅寺。
人物としては温和であり、そのことから人望を集めていた。そのために岩沼藩主にまでなったのだが、同時に温和でもあるが気弱な一面もあり、そのために叔父の伊達宗勝による専横を許すこととなり、伊達騒動が起こることとなったのである。ちなみに連座で処分された理由は、綱村の補佐役という地位にありながら、気弱なために宗勝の専横を許してしまい、結果としてそれが騒動に一因したためと言われている。
|
|
|