白起
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白起(はくき、?-紀元前257年11月)は中国・戦国時代末期の秦の将軍。公孫起とも。秦国郿県(現在の陝西省西郿県)の出身。常勝将軍と畏怖された。
『史記』の白起・王翦列伝によると、秦の昭襄王に仕えて各地を転戦、趙・魏・楚などの軍をいくたびも破った優れた将軍であった。その名は紀元前294年に左庶長に任ぜられたとの記述から登場する。紀元前278年にはその活躍により昭襄王より武安君の称を賜っている。また、この間捕虜は何万という数で生き埋めにしたとの記述がある。特に紀元前260年の長平の戦いでは、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝したが、このときも40万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。
しかし、長平の戦いでの白起の活躍を本国にあった宰相・范雎が自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。秦は翌年再び別の将軍で趙に攻め込んで邯鄲を包囲するが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君の軍に大敗北を喫した。危機を打開するために白起に再び将軍として出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。これがさらに立場を悪くし、紀元前257年、ついに昭襄王によって自害させられた。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。
司馬遷はその伝の末尾に白起を「非常に有能な将軍であったが、(身内であるはずの)范雎の患いから逃れることができなかった」と記し、王翦とともに優れた人物でありながら、欠点もあった人物であったと評価する。のち、三国・魏の将軍鄧艾が讒言をうけて殺される前に、自らを白起になぞらえて身の危機を悟ったとの記述が『三国志』にある。
なお『史記』の捕虜の生き埋めに関する記述は誇大なものであると長年とらえられてきたが、1995年5月の長平の古戦場における発掘調査でそれと思われる人骨が大量に出土し、多くの研究者を驚かせた。