相良為続
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相良 為続(さがら ためつぐ、1447年(文安4年) - 1500年6月30日(明応9年6月4日))は、相良氏の第12代当主。第11代当主・相良長続の三男。官位は従五位下。左衛門尉。 初名は頼元。通称は次郎三郎。菊池為邦から一字を授かって、為続と名乗った。
1467年、父が病に倒れたために家督を継いだ。翌年、父が死去すると実際に相良氏を取り仕切った。1482年から名和氏と対立し、1484年に八代を奪い、1487年には豊福城を奪ったが、調子に乗りすぎてなおも勢力拡大に努めたことが仇になり、1499年に菊池能運と戦って大敗を喫し、豊福と八代を奪われてしまった。 このことがよほどショックだったのか、翌年6月4日、54歳で死去した。法号は西華蓮船。墓地は球磨無量院。後を子の相良長毎が継いだ。
為続は戦国武将としてよりは、教養人・政治家として評価されている。1493年には『相良氏法度七条』を定め、また連歌にも通じて『新撰兎玖波集』を編纂している。
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