相良氏
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[編集] 沿革
藤原南家の流れを汲み、遠江国相良荘に住んだことから相良氏を称す。相良頼景の時代に、伊豆で兵を挙げた源頼朝に協力せず、その後も不遜な振る舞いを続けたたため、鎌倉幕府が成立すると、頼景は肥後国多良木荘に追放された。しかし、頼景はその後、頼朝に許され、多良木荘の地頭に任命された。さらに、頼景の長男、長頼も二俣川の合戦で手柄をたて、人吉荘を与えられた。多良木荘の相良氏は上相良氏、人吉荘の相良氏は下相良氏と呼ばれる。
室町時代の1448年、下相良氏の相良長続が上相良氏を滅ぼし、球磨・八代・葦北の肥後三郡の統一に成功した。戦国時代に入ると相良義滋が現われて戦国大名化を果たし、義滋の後を継いだ相良晴広の時代には有名な分国法・『相良氏法度20か条』や『晴広式目21か条』を制定し、また明との貿易にも取り組んで最盛期を迎えた。しかし晴広の子・相良義陽の時代に入ると南から島津義久の侵攻を受けて1581年に降伏。しかも同年に義陽が甲斐宗運と戦って戦死したため、相良氏は一時、滅亡の危機に立たされた。
しかし義陽の次男・相良頼房が、家臣の犬童頼安や深水長智らの補佐を受けて活躍し、九州平定後、豊臣秀吉より人吉2万石の領主として存続を許された。1600年の関ケ原の戦いで、頼房は西軍に属して伏見城攻防戦などに従軍したが、本戦で西軍が東軍に敗れると寝返ったため、戦後、徳川家康より所領を安堵され、相良氏は人吉藩として存続した。
[編集] 相良一族
- 相良頼景
- 相良長頼
- 相良頼俊
- 相良長氏
- 相良頼広
- 相良定頼
- 相良前頼
- 相良実長
- 相良前続
- 相良堯頼
- 相良長続
- 相良為続
- 相良長毎
- 相良長祗
- 相良長定
- 相良義滋
- 相良晴広(上村頼興の子で、義滋の養嗣子)
- 相良義陽(晴広の子)
- 相良忠房(義陽の長男)
- 相良頼房(義陽の次男)
- 相良頼寛
- 相良頼喬
- 相良頼福
- 相良長興
- 相良長在
- 相良頼峯
- 相良頼央
- 相良晃長
- 相良頼完
- 相良福将
- 相良長寛
- 相良頼徳
- 相良頼之
- 相良長福
- 相良頼基
- 相良頼紹
[編集] 系譜
凡例 太線は実子。(なお養子はあえて記載せず。)
頼景 ┃ 長頼 ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓ 頼親 頼氏 頼俊 頼村 頼員 ┃ ┃ ┃ 頼明 長氏 頼武 ┃ ┃ ┃ 頼常 頼広 頼綱 ┃ ┃ ┃ 頼積 定頼 隆頼 ┃ ┃ ┃ 長滋 前頼 長房 ┃ ┃ ┃ 頼均 実長 頼継 ┃ ┃ ┃ 頼道 前続 頼国 ┃ ┃ ┃ 頼連 堯頼 頼威 ┃ ┃ 実重 運重 ┃ ┗━━━━━━━━━━┓ 長続 高頼 ┣━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┓ ┣━━━┓ 為続 頼金 頼泰 直頼 長国 ┣━━━━━━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ 長毎 頼廉 長定 長弘 頼春 ┣━━━┳━━━┓ ┣━━━┓ ┃ 義滋 長祗 長隆 頼興 長種 治頼 ┃ 晴広 ┃ 義陽 ┣━━━┓ 忠房 頼房 ┃ 頼寛 ┣━━━┓ 頼喬 長秀 ┃ 頼福 ┣━━━┓ 長興 長存 ┣━━━┓ 頼峯 頼央