磯野員昌
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磯野 員昌(いその かずまさ、生年不祥- 天正6年(1578年)以降)は浅井氏に仕えた武将。姉川の戦いでの武勇で知られる。のち織田信長に降伏し、高島郡を与えられるが追放された。
代々京極氏の家臣であったが、浅井亮政の台頭に屈する形で磯野氏は浅井氏の配下に加わる。員昌の父である員宗は磯野氏の一族筋から養子として佐和山城を本拠に持つ磯野員吉に迎えられている。主家筋の磯野山城を本拠に持つ磯野氏は浅井亮政によって滅ぼされている。
員昌は佐和山城を本拠とし、武勇に長けたことから対六角氏戦で度々武功を重ね、合戦では浅井軍団の先鋒を任されるようになる。
[編集] 姉川の戦い
1570年(元亀元)6月28日の姉川の戦いでは織田軍に深く斬り込み、一時は織田信長の本陣近くにまで迫ったが、後に控えていた織田側の武将 稲葉一鉄らが駆け付け、その後、朝倉を撃破した徳川軍の増援もあり、浅井側は総崩れとなり敗退してしまう。
この員昌の織田本陣に迫る猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残っているが、徳川氏が天下を取った後、徳川軍の活躍を脚色するために書かれたものであるとする見方や、員昌が織田家に降った後織田家を追放されているという経緯から、織田側の文書に留まっていないとする見方もある。真偽のほどはともかくとして、後世に語り継がれるほどの武勇に長けた将であったことには変わりはないだろう。
[編集] 織田氏へ下る
姉川の合戦後、佐和山城は直ちに織田方に包囲された。陸路では横山城を拠点とした織田軍により分断され、秀吉の員昌に翻意ありという流言を信じ切ってしまった浅井氏側が湖を通した形でも佐和山城への兵糧や兵士の輸送を取りやめたことから員昌は翌1571年(元亀2)2月24日、佐和山城を攻撃された際にやむなく信長に降る。
秀吉の流言は元々磯野氏自体が浅井氏に屈服する形で仕えるようになったことや、員昌自身が独立心の強い性格であったという背景からすると非常に巧みなものであったと言えるだろう。 その後は信長に取り立てられ、近江高島郡を与えられるという破格の待遇を得て、越前一向一揆の鎮圧、杉谷善住坊の捕縛などに従事した。
ところが1578年(天正6)2月3日、信長の勘気をこうむって所領を没収され、高野山に追放された。高島郡は織田氏の一門である津田信澄に与えられた。この間の経緯は不明であるが、一説には信澄は員昌の養子となっており、信長は員昌に家督を譲るよう迫ったものの、拒まれたためともいう。追放後の員昌についての詳細は不明である。一説には本能寺の変後に高島郡に戻り、帰農して1590年(天正18年)に没したと言う伝承もあるが、確実なものではない。息子以下の一族は石田三成、のち藤堂高虎に仕えて家名を存続させた。