秋元永朝
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 元文3年(1738年) | |||
死没 | 文化7年7月9日(1810年8月8日) | |||
別名 | 岩五郎(通称) | |||
戒名 | 大隆院殿慈寛永朝大居士 | |||
墓所 | 東京都台東区上野の東叡山護国院 | |||
官位 | 従五位下、摂津守、従四位下、但馬守 | |||
藩 | 出羽山形藩主 | |||
氏族 | 上田氏→秋元氏 | |||
父母 | 父:上田義当、母:上田義行の娘 養父:秋元凉朝 |
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妻 | 正室:井伊直幸の娘 継室:牧野貞長の娘 |
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子 | 秋元修朝、秋元知朝、秋元久朝、 娘(本多忠典室)、娘(毛利広鎮室)、 娘(土井利行婚約者・本多康完室) |
元文3年(1738年)、上田義当の四男として生まれる。宝暦10年(1760年)2月に初代藩主・秋元凉朝の養子となる。7月には従五位下、摂津守に叙位・任官する。明和5年(1768年)5月24日、凉朝が隠居したため、家督を継いで第2代藩主となる。
安永3年(1774年)12月、奏者番に任じられる。安永8年(1779年)9月、仕事中における失態があったため、10月まで出仕停止処分となった。安永9年(1780年)12月、但馬守に遷任する。天明3年(1783年)、村山郡が凶作となり、それが原因で天明4年(1784年)5月に藩内で米騒動・打ちこわしが起こった。天明8年(1788年)7月、奏者番を辞任する。寛政10年(1798年)12月、従四位下に昇叙する。
文化7年(1810年)7月9日に死去。享年73。後を子の秋元久朝が継いだ。
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