租庸調
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租庸調(そようちょう)は、中国及び日本の律令制下での租税制度である。
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[編集] 日本の租庸調
日本の租庸調は、中国の制度を元としているが、日本の国情に合わせて導入されている。
[編集] 租
租は、田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%に当たった。原則として9月中旬から11月30日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが地方行政の主要財源とされた。しかし、歳入としては極めて不安定であったため、律令施行よりまもなく、これを種籾として百姓に貸し付けた(出挙)利子を主要財源とするようになった。一部は舂米(臼で搗いて脱穀した米)として、1月から8月30日までの間に、京へ運上された。(年料舂米)
律令以前の初穂儀礼に由来するのではないか、とする説もある。
[編集] 庸
正丁(21~60歳の男性)・次丁(正丁の障害者と老丁(61歳以上の男性))へ賦課された。元来は、京へ上って労役が課せられるとされていたが(歳役)、その代納物として布・綿・米・塩などを京へ納入したものを庸といった。京や畿内・飛騨国(別項参照)へは賦課されなかった。現代の租税制度になぞらえれば、人頭税の一種といえる。
庸は、衛士や采女の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となった。
[編集] 調
正丁・次丁・中男(17~20歳の男性)へ賦課された。繊維製品の納入が基本であり(正調)代わりに地方特産品34品目または貨幣による納入も認められていた。(調雑物)これは中国の制度との大きな違いである。京へ納入され中央政府の主要財源として、官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。 京や畿内では軽減、飛騨では免除された。
[編集] 調副物
調に付属した税。正丁のみ紙や漆など工芸品を納めた。
調・庸・調副物は京に納入された。納入する人夫を運脚といい、かかる負担は全て自弁であり大きな負担となった。
註:飛騨は調・庸を免除され替わりに匠丁(しょうてい、たくみのよほろ)を里ごと10人1年交替で徴発した。いわゆる飛騨工(ひだのたくみ)である。匠丁は木工寮や修理職に所属して工事を行った。
[編集] 中国の租庸調
中国の租庸調は、北周に始まり、唐で完成した。以下は、唐における租庸調である。
[編集] 租
均田制に基づく田地の支給に対して、粟(穀物)2石を納める義務を負った。これが租である。
[編集] 庸
律令においては、年間20日の労役の義務があり、それを免れるために収める税が庸であった。労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収めることとされていた。
[編集] 調
調は、絹2丈と綿3両を収めることとされていた。
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