均田制
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均田制(きんでんせい)は中国に於いて南北朝時代の北魏から唐代まで行われた土地制度。国家が国民に対して土地を給付し、そこから得られる収穫の一部を国家に納め、一定期間が過ぎれば土地を返却するという形式で行われる。
目次 |
[編集] 概要
制度の具体的内容やその実態に付いては諸議論があるが、それは研究史で後述し、概要および歴史の項目では一般的に理解されていると思われる均田制を説明する。
均田制は民を戸籍に登録し、その中の労働に耐えうる人間に対して一定の年齢になると、返還しなければならない口分田(露田・麻田)と売買・世襲が認められる永業田(桑田・世業田)を給付し、その一定額の給付に対して定額の租(穀物)・調(繊維)・役(労役)(租庸調)の納税を求める制度である。
北魏孝文帝治世の485年に初めて施行され、その後の東魏・北斉、西魏・北周、隋、唐に受け継がれる。しかし盛唐の玄宗期からの社会変化に対応できず、安史の乱の大変動によって実行は不可能になり、780年の両税法の施行によって形骸を遺して実質上は廃止された。
均田制は律令制の根幹とされたため、周辺諸国に対して唐律令が輸出されると共に均田制もまた輸出され、日本・ベトナムなどにおいても実施された。
[編集] 歴史
単位に付いては単位表を参照。
[編集] 均田への系譜
周代には井田制と呼ばれる土地制度が行われていたとされる。井田制は9家を一組とし、一家ごとに100畝の私田を給付し、9家に100畝の公田を共同で耕作させる。私田から得られる収穫は民の収入に、公田から得られる収穫を国に対する税とする制度である。この制度が実際に行われていたかは疑問の声が強い。しかし周代を理想とした儒家によって井田制もまた理想の制度として後代に語られ、歴代の政治家たちが土地制度を考える際には井田制が頭の中にあった。
前漢では豪族による大土地所有が進み、一般の農民の困窮が深刻となっていった。これに対して政府は武帝治世の末ごろより、国家の所有する公田を困窮した民に貸与して耕作させる政策を採った。更により抜本的な対策として哀帝の即位(綏和二年・7年)を機に土地の所有の上限額を決める限田制を実行しようとしたが、こちらは強い反対に会い断念した。
この流れを受け、漢より禅譲を受けた新の王莽は土地の私有を禁じ、全てを王田(国有地)とする王田制を打ち出した。しかしこれはあまりに拙速な改革であり、当然のことながら豪族勢力からの激しい反発を受け、新が滅亡する原因を作った。
その後漢を引き継いだ魏の実質的な創始者曹操は戦乱で荒れ果てた土地に農民を集め、自らの軍をもって守備させ、収穫を納めさせる屯田制を実行した。
魏から禅譲を受けた西晋では280年より占田・課田制が施行される。占田・課田制は土地制限としての占田、農民に対する給付と課税としての課田という両者を備えており、均田制の前身と言えるものであった。ただし西晋が短命に終わったためにこの制度は実施期間がごく短く、また史料的な制約もあり、成果がどの程度上がったのか良く解らない。
西晋滅亡後、華北は五胡十六国時代の長い混乱期に入る。その中で徙民政策・計口受田制が行われる。徙民とは民を徙(うつ)すの意で強制的な移住政策のことであり、移住させた民に対して口(人数)を計って田の給付を行うのが計口受田制である。
[編集] 北魏均田制
439年、北魏が華北を統一する。当時の社会状況は豪族たちが経営する広大な荘園が存在しており、その中に多数の農民が囲い込まれていた。それら土地と農民とを井田制を模範として国家の斉一的な支配下に置こうとするのが均田制とその前後に施行された俸禄制・三長制であると考えられる。ただしそのことがすぐに国家が豪族と対立することを意味するものではなく、国家が官僚としてこれら豪族たちを吸収し、均田制下に於いても荘園が存在していたことに留意する必要がある。
馮太后の摂政の元に均田制に前後して484年(太和八年)6月に俸禄制が発布。翌485年(同九年)10月、李安世の上奏を受けて均田制が発布、更に翌486年(同十年)2月には三長制が施行されている。[1]
それまでの北魏には官僚に俸禄が無く、官僚たちは勝手に民衆から取り立てて自らの収入としていた。俸禄を与える代わりにそれを禁じたのが俸禄制である。三長制は五家を一隣、五隣を一里、五里を一党と言う単位に民衆を組織する制度である。俸禄制は地方の綱紀を正すことにより、均田制の円滑な実施を求めるものであり、三長制は豪族たちの元に囲い込まれている農民を再編し、国家の支配化に置き、均田制の礎となるものである。
北魏に於ける均田制の具体的な内容を述べると
- 15歳以上の男性を男夫とし、これに露田80畝(正田40畝・倍田40畝、約3.7ヘクタール)と桑田20畝(約0.93ヘクタール)ないし麻田10畝(約0.46ヘクタール)を与える。
- 既婚女性を夫人[2]とし、これに正田20畝・倍田20畝、麻田5畝を与える。
- 奴婢は良民(奴婢でない)に準ずる。
- 耕牛に正田30畝・倍田30畝を与える。但し4年まで。[3]
- 園宅地として良人3人に1畝、奴婢5人に1畝が与えられる。
露田とは木が植えられない裸の田という意味で穀物を栽培する。桑が栽培できる土地には桑田を桑が出来ない土地は麻田がそれぞれ給付される。倍田とは連作防止のためのものである。
この内、桑田・園宅地は世襲が認められ、ある程度自由に処分することが認められた。一方で世襲により桑田を多く持つ者は余剰分を倍田の変わりとして充てられる。露田・麻田は男夫は死ぬか、70になった時に返還する。夫人の場合は明確ではないが、夫が死んだり、離縁したりして夫人でなくなった場合には返還する。それぞれ後代の口分田・永業田の元となったと考えられる。
奴婢・牛に対する給付はその所有者が受け取ることになる。これは大土地所有をある程度認めたものと考えられるが、これは初期均田制が土地の均等な配分よりも労働力を余すことなく活用することに主眼が置かれていたためと考えられる。
そしてこの支給に対する収税が均賦制であり、夫婦に対して租が粟2石(79.2リットル)・調帛1匹(27.9メートル)、麻布の場合には布1匹が課せられる。未婚の男性はこの四分の一、奴婢には八分の一、牛に対しては二十分の一がかけられる。
[編集] 隋唐均田制
587年、隋が中国を統一すると文帝は全国に対して均田制を実施し、煬帝の即位と共に夫人・奴婢[4]に対する給付を取りやめる。
北周から禅譲を受けた隋であったが、均田制に付いては斉制に倣った。
隋の均田制では男丁(男夫に同じ)に対して口分田80畝(約4.17ヘクタール)、世業田20畝(約1.04ヘクタール)が給付される。口分田は59歳になると返還する田であり、世業田[5]は子孫に伝えることが許される田である。
またこれとは別に官人永業田と職分田・公廨田の制度が整備される。官人永業田は官僚・勲官(外征に勲功を挙げた者)・爵位の持ち主に対して与えられ、世襲が認められ、官品の上下で給付額が決まる。職分田は実際の職に就いている者がその間だけに与えられるものである。公廨田は官庁の経費をまかなうためのものである。職分田と公廨田は希望者に対して耕作の権利を与え、収穫の一定量を収めさせるというものだが、実際には半強制であったようである。
これに対して租が粟3石(59リットル)、調が絹1匹(29.5メートル)と綿3両(約124グラム)、役に年30日が課される。583年(開皇三年)には租が2石・役が20日とそれぞれ削減される。)
唐も基本的に隋制に倣う。庸の制度は隋に於いて見られ始め、唐になって完全な形となる。
[編集] 均田制の崩壊
武則天期から玄宗期にかけて、天災、労役の過重、大土地所有が進んだことによる耕作地の不足などにより窮迫した農民が土地を失い本籍地から逃亡する例が増える。これを逃戸と呼び、逃戸が逃亡先で定着したものを客戸と呼ぶ。政府は対策として客戸を再び戸籍に組み入れる括戸政策を行う。これによって一定の効果を挙げたものの、客戸は土地と民と不可分のものとしてて国が管理する均田制の理念とは相容れない存在であり、均田制は機能不全に陥っていた。
また客戸は大土地所有者の元に逃げ込んで小作人となることが多く、これを佃戸と呼ぶ。佃戸の増大により、租庸調の収入は激減した。
これに対して唐中期から租庸調とは別立ての税、地税・青苗税・戸税などが出てくるようになる。これらは租庸調が土地と民とを一体のものと看做してかけられた税であるのに対して、民個人の財産に応じてかけられる税である。安史の乱以後には財政の悪化も影響し、これらの税目が非常に多岐に渡るようになり、その内容も非常に複雑で不公平になりやすいものであった。また乱以降に割拠した藩鎮勢力はこれらを恣意的に取り立てて自らの財源として扱い、不公平はますます酷くなった。この不公平が更に逃戸を生み出し、それがなお財政の悪化をもたらすという悪循環であった。
780年に宰相楊炎の建議によって複雑な税制を夏税・秋税の二つに纏める両税法が施行され、均田制を規定する田令はそのまま保持されるものの実質的は消滅した。
[編集] 制度の変遷
[編集] 給付
給付額・課税額の変遷に付いては後述の表を参照のこと。
北魏分裂後の北斉での変更点は564年(河清三年)に給付を受けられる奴婢の数に制限が設けられ、最高の親王が300人、八品以下は60人を限度としてそれ以上の奴婢には給付されないようになる。同時に未開拓地を自ら切り開いた者にはその土地が与えられるようになった。この政策の意義は奴婢の労働力を既墾地から未墾地に移すことを目的としていると考えられる[6]。
また北魏制では桑の産地であるかどうかでかなりの不均衡が出ることになる。そこで北斉では麻田も桑田と同じく20畝を世襲可能とした。なお夫人に対する麻田の給付は無くなる。
他に給付の対象年齢が70歳から59歳に引き下げられる。
北周での給付に付いては判然としないが、夫婦に140畝・独身男性に100畝とあり、北斉と同じように麻田も20畝となった可能性が高い[7]。
隋に於ける変更点は、夫人・奴婢に対する給付が廃止され、男丁(男夫に同じ)に一本化されたことである。更に丁となる年齢がそれまでの18歳から21歳に引き上げられる。なお16歳から20歳までの男性は中男とされ、給付は受けるが租調は納めず雑徭のみを課せられた。
しかし全ての農民に対して同じだけの農地を分配することを名目としているものの、実際の運用に於いてはそうならない場合も多い。長安周辺など人口に対して極端に農地の少ない土地では十分な給付は不可能である。唐代に於いてはこのような土地を狭郷と呼び(対して十分な給付が出来る土地を寛郷と呼ぶ)、規定の半分が給付される。
[編集] 官人永業田・職分田・公廨田
官人永業田は隋に始まり、官品に応じて給付される。隋代では最高が100頃、少ないもので40畝とある。唐制は最高が100頃から最低で40頃とある。いずれも永業田であり、世襲と自由な処分が可能である。
これに対して職分田(職田)の起源は北魏にある。職分田は前述の通りその官職にある間だけ給付されるものであり、そこから得られる収穫がその職の給料の一部と成り、その職から離れた時に返還する。当然、自由な処分は不可であり、その経営の仕方も決められたものであった。北魏の職分田に付いては『魏書』中にそれを示したと思われる条文が二種類あり、一つは最高の刺史で15頃とあり、もう一つは全て1頃となっている。これに付いて堀敏一は前者が全国的な官に付いてのものであり、後者は京官(中央官僚)に付いてのものとする[7]。職分田はその職の任地に近い土地が与えられる名目になっており、数の多い中央官僚に与えられる土地は少ないものとなる。北魏に於いては官僚の官品による差異は無かったが、北斉に於いては官品に応じて差が付けられたと考えられる(具体的額に付いては不明)。隋に於ける職分田は最高の一品で5頃、品ごとに50畝の差が付けられ、最低の九品で1頃となる。唐では最高の一品で12頃、最低の九品で2頃となる。
公廨田は隋の開皇十四年(594年)に初めて登場する。公廨田は各官庁の費用を購うための土地である。
公廨田・職分田共に農民の希望者を募って耕作・一定額を納めさせ、余剰が農民の収入となるという名目になっていたが、実際には強制的なものとなっており、一種の役的性格を持つものであったらしい[8]。しかしこの役の負担に加え、職分田の存在自体が農民に負担を与えるものとなっていた。職分田は任地付近に土地が与えられることになっていたために首都周辺にそれら公田が集中することになる。しかし隋・唐の首都である長安は人口に対して極端に耕作地の少ない狭郷(給付の項を参照)であったため、職分田の存在が農民たちの生活を圧迫することになった。そのため何度となく改廃が繰り返されることになる。
[編集] 不課口給田・税戸
不課口(不課戸)とは納税しない口(戸)のことである。
不課口には二種類あり、まず納税するだけの能力を持たない子供・老人・廃疾・寡婦などしかいない戸を蠲課戸と呼ぶ。これに対して北魏に於いては、11歳以上15歳未満の中男および廃疾者が戸主の戸に対しては40畝(20+20)、70歳以上の老男が戸主の戸に対しては80畝、寡婦に40畝を給付した。隋に付いては詳細は不明。唐では戸主でなくても老男および篤疾・廃疾[9]は40畝、寡婦30畝となる。
これらの不課口給田は社会保障的な意味合いを持つものである。これとは別に唐代では官に免税特権が出来、これらを免課戸と呼ぶ。
唐を通じて免課戸は増大の一途を辿り、それに伴って一般農民に給付される田地は減っていった。755年(天宝十四年)の記録で本来給付されるべき土地が1430万頃あまりに対して実際の給付額が530万頃あまりという数字がある。しかし給付される土地が少なくなっても税は減額されず、これによって生じた農民の困窮が均田制崩壊の一因と見られる。
[編集] 九等戸制
均田制は農民を全て等質に支配する制度ではあるが実際にはその経済状態には差が生じるのは避けがたかった。そこで北魏では各戸の財産を量って上・中・下の三等に分割し、唐の635年には上上から下下の九等に分ける。これを九等戸制という。給付額及び課税額は変わらないが、給付の際に下等戸から優先的に割り振る、あるいは役を上等戸から優先的に割り振るなどの差を付けた。
[編集] 課税
[編集] 役
北魏に於ける役に付いては史料的な制限もあり、判然としない。ただ征戍・雑役と呼ばれる役があったと考えられる。征戍とは唐の正役(歳役)の、雑役は雑任役とも言い、唐の徭役のそれぞれ前身であると考えられる。
正役および徭役の日数に付いては西魏から北周にかけて丁兵制という兵制があった。この兵制は最初は六丁兵(年60日)であったものが後に八丁兵(年45日)になり、十二丁兵(年30日)になったと考えられる。[10]更に隋開皇三年(583年)に年20日(閏年には22日)になり、唐もこれを受け継ぐ。
また留役という規定があり、20日を越えて余分に役を行った者は15日を越えれば調が、更に15日を越えれば租が免ぜられる。[11]逆に余分に財貨を納めて役を免れる庸の制度は隋に於いて特例的に行われていたものが、唐代に入り一般化した。1日の役に対して絹3尺ないし麻布3.75尺を納める。
丁兵制と府兵制の関係であるが北周までの府兵は基本的に鮮卑軍団によるものであり、一般民とは明確に区別されていた。隋開皇十年(590年)にこの区別が廃止され、一般民による正役・歳役が府兵を構成するようになる。
唐の徭役は中央政府が管轄する様々な雑役を行う。主なものを挙げると城門や倉庫の番をする門夫、橋梁の番人である津家水手、駅伝の駅の番である駅家・駅子、あるいは村落の取りまとめや徴税を行う里正・村正・坊正などがある。徭役に付いている間には租調・雑徭が免除されていた。逆に一定の金銭を納めれば徭役を免れることが出来た。
正役・徭役に加え、雑徭と呼ばれる労役がある。これは正役や徭役が中央政府に使役されるものであるのに対して、雑徭は地方官に使役される。雑徭は北魏延興三年(473年)にまで遡るが、雑徭に関しては史料が少なく、判然としない部分が多い。その中で有力とされる説を挙げると雑徭は地方官の考えによって課される役であり、決められた日数は無く、全く課されない場合もあれば多く課される場合もある。但し雑徭の日数が40日を越えると役が、70日を超えると租が、100日で租調役全てが免ぜられた。というものである。[12]
[編集] 地税・戸税
唐代均田制下に於ける課税の基本は言うまでもなく租調役である。しかしそれとは別に地税および戸税がある。
地税は天災などの時に救済費用として当てるためのものであり、私有地・借地の別なく1畝ごとに粟2升を収める。唐のいつごろの年代から始まったのかは不明であるが、少なくとも680年には存在していたことが解っている。しかし唐の財政悪化と共に救済費用のはずが一般財源としても使われるようになる。
戸税は不課戸を対象にして戸単位でかけられる税である。不課戸を課戸と同じく九等に分け(官吏は官品に応じて)、上上戸で4000文・下下戸で500文を課す(769年時点)。
[編集] 研究史
この項の大部分は氣賀澤保規「均田制研究の展開」に拠っている。
[編集] 戦前
均田制の研究は戦前より行われ、1970年代までは日本の中国史学界でも最も活発な分野であった。しかし扱う範囲が時代も分野も非常に広いために個々の論点で話し合われる論争に発展することはあまり多くなかった。
日本における本格的な均田制研究は1922年(大正十一年)に発表された玉井是博の「唐時代の土地問題管見」(『支那社会経済史研究』に所収)・岡崎文夫の「唐の均田法に就いて」(『支那学』2-7)に始まる。
戦前に於いて主要な役割を果たした研究者を挙げると前記二人を除いて、加藤繁・仁井田陞・鈴木俊・宮崎市定・志田不動麿らの名前が挙がる。戦前の均田制研究に於いては一次史料が極端に少ない。均田制を規定する律令に関しては仁井田によりほぼ完全な形で復元が行われているものの(『唐令拾遺』)、一次史料となると敦煌文献・吐魯番文献中に戸籍文書がわずかに見つかっていたのみであった。
以後、戦前に於ける主な争点を節を分けて解説する。
[編集] 均田農民の性格付け
均田制下に於ける農民たちが社会的にはどういう位置に位置づけされるかである。志田不動麿は均田農民は国家との関係において農奴であり、唐中期に均田制が崩れた後に小作制が登場するとした(志田1932)。これに対して宮崎市定は均田制とは国家による荘園経営であり、均田農民は小作人(農奴)であるとした(宮崎1935)。また加藤繁は均田制はある程度の大土地所有を認めつつそれに歯止めをかけ、農民たちを自作農の地位から没落しないようにするためのものであるとした(加藤1928)
[編集] 国有か私有か
均田制によって給付される土地が国有であるのか私有であるのかである。玉井是博は前掲論文に於いて均田制は井田制以来の土地公有制を目指したものであるとする。宮崎市定は前述のように均田制は国家による荘園経営であるという立場なので当然国有と考える。これに対して仁井田陞は均田制は土地私有に対して一定の条件・制限を設けるものであるとし(仁井田1929、1930)、これに志田不動麿も賛成する。
[編集] 還受の実態
均田制の給付及びその還受が実際に行われていたかどうかである。玉井・岡崎の両者の前に内藤湖南と加藤が「均田制は大土地所有を制限する目的であったが、豪族・貴族の反発により十全な効果は発揮できなかった。」という意味のほぼ同じ考えを出しており、これが均田制研究の始まる前の一般的見解であったと言って良い。鈴木俊はこれとは多少違った立場を採り、均田制は豪族・一般農民の区別無く100畝で土地所有を制限する目的であるとした。更に敦煌戸籍の研究から個人の私有地を永業田として登録していき、余りがある場合は口分田として登録するものであったとする(鈴木1935、1936)。金井之忠もこれに賛成する(金井1943)。これに対して仁井田陞は均田制を規定する田令の条文、敦煌・吐魯番の戸籍文書などの研究から敦煌・吐魯番に於いて還受が行われていたとし、更に全国的にも還受が行われていた可能性を示唆した(仁井田1937)。
[編集] 均田制下の荘園の存在
宮崎は上述のように荘園は時代の特徴であるとし、均田制もまたその中にあるとする。しかし均田制を限田の意義から捉える多くの研究者は均田制と荘園とは対立し、均田制が荘園の拡大をある程度押さえ込む役割をしたと考える。
[編集] 地域限定論
岡崎文夫は均田制とは府兵制の軍府が置かれた地域で実施されたものであり、全国的に行われたものではなかったとの見解を出した(岡崎1935)これに対して仁井田は前述の通り、全国的な実施が行われていたとする。
[編集] 均田制の系譜
均田制を井田制以来の中国伝来の土地思想と結びつける多数派に対して、清水泰次は鮮卑の計口受田制と関連付ける(清水1932)。
[編集] 戦後
戦後の均田制研究に於いて最も大きな画期となったのは山本達郎による敦煌文献スタイン文書の整理・紹介、西嶋定生・西村元佑・周藤吉之らによる敦煌・吐魯番大谷文書の整理・紹介である。これにより西魏計帳戸簿・退田文書・給田文書・欠田文書といった一次史料が大幅に増え(といっても少ないことには変わりないのだが)、均田制研究は大きく進展することになる。
それぞれの解説をすると。西魏計帳戸簿は西魏の547年(大統十三年)に作られた敦煌の戸籍(A文書)とその集計(B文書)からなる。退田文書・給田文書・欠田文書は、まず土地を返還する者の氏名と土地を記したものが退田文書である。それを別紙に転写し、新たに給付される者の名を記したのが給田文書である。そして給田の不足分を記したものが欠田文書である。
これを基に西嶋は吐魯番に於いて給付・還受が行われていたとし、更に敦煌でも同じことが言えるとした。そして二つの離れた地域に於いて給付・還受が行われていたことは均田制が全国的に実質を持って施行されていたことを証明しているとした。但し全国的に一様に行われているという訳ではなく、地方によって施行状態に差異があるとしている(西嶋1959、1960)。これらにより還受が行われていたとする見方が一気に強まり、現在に至る。
戦後の均田制研究で主要な役割を果たした研究者を挙げると、前述の3人を除くと戦前から続いて鈴木俊・宮崎市定、戦後から曽我部静雄・池田温・日野開三郎・堀敏一・土肥義和らの名前が挙がる。
特に1975年に堀が著した『均田制の研究』は戦前から当時に至るまでの研究を網羅し、検討を加え、それらに堀自身の見解を加えた名著として名高く、均田制研究の一つの画期となった。
皮肉なことに堀の著作以後は均田制研究は徐々に下火になり、吐魯番・敦煌両文献を基にした実証に力点が置かれ、均田制を全体としてどう理解するかという視点の研究は少なくなってきている。
[編集] 均田制の系譜
戦前より引き続く問題である。
前述の通り、戦前に於いては占田課田制などの中国歴代の土地制度の延長線上に均田制を位置づけるのが支配的であり、計口受田制との関係で均田制を位置づけるのは清水泰次に限られた。しかし戦後にはこの見方が拡大し、多くの賛同者を出した。その賛同者の中でも河地重造(1953年)、田村実造(1962年)、小口彦太(1972年)、古賀登(1972年)らは占田課田制が直接の前身であることを否定し、西村元佑(1949年)、堀敏一(1965年)らは計口受田制から生まれた均田制であるが、中国歴代の土地制度の系譜にも位置づけられるとした。
[編集] 施行年次
均田制・俸禄制・三長制の施行年次、及び李安世の上奏の年次に付いてである。
まず『魏書』「高祖本紀」では北魏均田制に記述してある年次で記載されている。何通りかの説があるものの松本善海(1956年)によって詳細に批判され、『魏書』記載の順番でほぼ間違いないとされる。
李安世の上奏の年次に付いては西村1949は均田制とは関係が無く三長制の後とした。是に対して松本1956は上奏文の半分を均田制の前・もう半分を三長制の後とし、佐々木栄一(1972年)は全文を均田制以前のものとする。
[編集] 北魏均田制と共同体
還受の実態・均田制下の荘園の存在で述べたように、戦前は均田制は豪族の土地所有を制限することに眼目があり、荘園の拡大をある程度防ぐ効果があったという見方が強かった。しかし戦後になると還受が実質を持ったものであるという見方が強くなる。そうすると還受が実質的なものであるならば、なぜ均田制下でも荘園が存在しえたのかという問題が生ずる。この問題の回答を出すためには国家と豪族との対立関係の上に均田制の存在意義があるという従来の考えを修正する必要があると考えられた。
堀は当時の豪族勢力が宗主制を基として農民に対して指導者的立場を発揮した共同体的側面と農民から収奪する地主的側面という矛盾する二面を持つと考え、この間に楔を打ち込み農民に対する支配権を国家の基に引き戻すことが均田制の意義であったが、豪族も完全に力を失ったわけではなく、国家の中に官僚として取り込まれた、とした(堀1965)
谷川道雄はこれを批判して、当時の豪族層を共同体の指導者としての役割を果たす士大夫的大土地所有者と農民から収奪する非士大夫的大土地所有者の二つのグループに分かれるとした。そして均田制は後者を排除し、前者の形態を国家規模において実行することとは共存することを目的としていたとした(谷川1967)。
これに対して堀は谷川のように豪族自体を二分化することには反対し、あくまで豪族の持つ矛盾する二面でこれを説明しようとし、前説を修正して宗主制は本来共同体を構築し、その中での農民は自立性を保っていた。しかし宗主制の一部は変質して農民を隷属せしめる存在となった。均田制は後者を排除しようとしたものであるが、前者とは共存することが出来たとした(堀1975)。
[編集] 還受の実態
戦前から引き継ぐ問題である。
還受否定の立場を採るのは鈴木(1956年)・日野(1954年)らであった。しかし前述の通り、退田文書などが発見されたことで状況は一変する。
西嶋は発見文書を基に吐魯番および敦煌で還受が行われていたことを証明し、全国的にも還受が行われていたと見るべきであるとする(西嶋1959、1960)。
これに対して池田は吐魯番が唐の西域経営の拠点であるという特殊な地理条件を考慮に入れ、吐魯番での還受を全国的な還受に結びつけるのは慎重であるべきと述べた(池田1960)。なおこの文書を屯田の文書ではないかとする宮崎1960があるが、池田に否定された。
その後は吐魯番文書を基にして当時の吐魯番に於いてどのように均田制が行われていたかを実証することが研究の主眼となった。この分野では池田・土肥が中心となって成果を挙げた。
[編集] 均田制と時代区分論
戦前、内藤は中国史全体を理解するに当たり、旧来の王朝ごとの時代区分を批判し、後漢中期までを上古、魏晋南北朝時代から唐中期までを中古、宋以降を近世とする考えを発表した(内藤1909-1919)。上古・中古はそれぞれ古代・中世と言い換えて概ね間違いは無い。これに対して唐中期までを古代とする論が前田直典によって出された(前田1948)。
前者は宮崎・谷川らの京都学派によって発展を遂げ、西嶋・堀らの東京学派によって発展を遂げ、両者は激しい論争を行う(中国史時代区分論争)。
古代・中世はそれぞれ奴隷制・農奴制の時代とされる。中国史時代区分論争の中心にあったのが均田制の研究であった。両説とも唐から宋へを変革期として捉えることには変わりは無い。しかしその変化する内容が論点であり、唐代に国家・貴族・農民の三者がどのような関係にあったか、そして均田制が崩壊して以降はそれがどう変化したかを考えることが時代区分を考える際には不可欠であり、三者の関係を考えるには均田制の理解が必要不可欠であった、
京都学派は主に均田制が実際に施行される実態をあまり重視せず、均田農民の性格付けで記述した宮崎の立場のように均田農民を農奴と捉える。
これに対して東京学派は吐魯番に於ける均田制の施行状態を基に、均田制が全国的に実態あるものとして捉え、国家が農民に対して及ぼす強力な支配体制を強調する。西嶋は初めこれを「国家的奴隷制」と名づけていたが(西嶋1950)、後にこれを撤回して国家が農民に対して及ぼす「個別人身的支配」という用語を使うようになる(西嶋1961)。これを更に発展させたのが堀であり、その成果は堀1975に纏められる。
しかしその後、時代区分論争自体が結論のでないまま下火になっていく。均田制の研究が下火になった要因の一つに時代区分論争というエネルギー源を失ったことを挙げても良いであろう。
[編集] 表
[編集] 給付
男丁(男夫) | 夫人 | 奴婢 | 牛 | |
北魏 | 露田80畝(正田40+倍田40)+桑田20畝ないし麻田10畝 | 露田40畝(正田20+倍田20)+麻田5畝 | 良民に同じ | 露田60畝(正田30+倍田30) |
北斉 | 露田80畝+桑田ないし麻田20畝 | 露田40畝 | ||
隋 | 口分田80畝+世業田20畝 | 廃止 | 廃止 | 廃止 |
唐 | 口分田80畝+永業田20畝 |
[編集] 課税
租 | 調 | 役 | ||||||||
牀 | 単丁 | 奴婢 | 牛 | 牀 | 単丁 | 奴婢 | 牛 | 牀 | 単丁 | |
北魏 | 粟2石 | 4分の1 | 8分の1 | 20分の1 | 絹1疋(布1匹) 綿8両 |
4分の1 | 8分の1 | 20分の1 | ||
北斉 | 墾租2石・義租5升 | 2分の1 | 2分の1 | 墾租1斗 義租5升 |
絹1疋・綿8両 | 2分の1 | 2分の1 | 絹2尺 | ||
北周 | 粟5斛 | 2分の1 | 絹1疋(布1疋) 綿8両(麻10斤) |
2分の1 | ||||||
隋 | 粟3石 | 絹2丈(布1疋) 綿3両(麻3斤) |
年30日 | |||||||
唐 | 粟2石 | 年20日 1日=絹3尺ないし布3.75尺 |
[編集] 単位表
100分の1頃=1畝 | 1匹=10丈=100尺 | 1石=2斛=10斗 | 1斤=16両 | |
北魏 | 467.046平方メートル | 27.9メートル | 39.6リットル | |
隋 | 522.150 | 29.5 | 59.4 | 668.8グラム |
唐 | 580.326 | 31.1 | 59.4 | 596.8 |
[編集] 脚注
- ^ 施行の順番および李安世の上奏の年次に付いては議論があった。詳しくは施行年次を参照のこと。
- ^ この夫人を成年女性一般とする玉井是博の説(玉井1922)と既婚女性に限るとする虎尾俊哉の説(虎尾1961)があり、後者が有力とされる。
- ^ 4年という説(『隋書』「食貨志」、清水泰次1932)と4頭(『魏書』「食貨志」、宮崎市定1935)という説がある。結論は出ていない。
- ^ 牛に関しては給付停止になった時期が明確ではない
- ^ 後に太宗李世民を避諱して永業田。
- ^ 西村元佑1970
- ^ a b 堀敏一1975
- ^ 谷川道雄1952
- ^ 篤疾の方がより症状が重い。
- ^ 6人に1人、8人に1人、12人に1人の割合で徴兵するという説もある。(岡崎文夫1935)
- ^ 留役について。14日までは何の特典もなく15日を越えた時点で初めて免税となるという宮崎市定1956と15日に満たなくても日割りで免税されたとする堀敏一1975がある
- ^ この説は吉田孝(1962年)によるもの。この他に「年に40日を課された。」(曾我部静雄1953)、「40日以上雑徭を行うと役が、70日を超えると租が、100日で租調役全てが免ぜられた。ただしその後、再び雑徭の義務が生ずる」(宮崎市定1956)、「50日を課され、その後40日以上を越えると役が、70日で租が、100日で租調役全てが免ぜられた。」(浜口重国1966)などの説がある。
[編集] 史料および参考文献
[編集] 史料
- 『魏書』
- 『周書』
- 『北斉書』
- 『北史』
- 『隋書』
- 『旧唐書』
- 『新唐書』
- 『通典』
- 『唐令拾遺』(仁井田陞、東京大学出版会、ISBN 4130311514)
- 『唐令拾遺補』(仁井田陞著、池田温編、東京大学出版会、ISBN 4130361090)
[編集] 参考文献
本文中に登場した論文のリストである。このリストの中には他の文献に引用されている部分を参照しただけで直接には参照していないものがある。そのようなものは文字の色がグレーになっている。参考すべき論文は氣賀澤1993に詳細なリストがあるのでこれを参照すると良い。
- 池田温
- 1960年「西域文化研究二 敦煌吐魯番社会経済資料(上)書評」『史学雑誌』69-8
- 岡崎文夫
- 金井之忠
- 1943年「唐均田論」(『文化』10-5)
- 氣賀澤保規
- 1993年「均田制研究の展開」『戦後日本の中国史論争』(谷川道雄編、河合文化教育研究所、ISBN 487999989X)
- 小口彦太
- 1972年「北魏均田農民の土地『所有権』に付いての一試論」『早稲田法学会誌』23
- 佐々木栄一
- 1972年「李安世の上奏と均田制の成立‐上奏年次の追及を通して」『東北学院大学論集・歴史学地理学』
- 志田不動麿
- 清水泰次
- 1932年「北魏均田考」『東洋学報』20-2
- 鈴木俊
- 曾我部静雄
- 加藤繁
- 河地重造
- 1956年「北魏王朝の成立とその性格について‐徙民政策の展開から均田制へ‐」『東洋史研究』12-5
- 古賀登
- 1972年「均田法と犂共同体」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』
- 谷川道雄
- 玉井是博
- 田村実造
- 1962年)「均田法の系譜‐均田法と計口受田制との関係‐」『史林』45-6
- 虎尾俊哉
- 仁井田陞
- 西嶋定生
- 西村元佑
- 堀敏一
- 1965年「均田制の成立」『東洋史研究』24-1・2
- 1975年『均田制の研究』(岩波書店、ISBN 4000003607)
- 浜口重国
- 日野開三郎
- 1954年「大唐租調惑疑」『東洋史学』9-11
- 前田直典
- 1948年「東アジヤに於ける古代の終末」『歴史』1-4、1973に所収。
- 1973年『元朝史の研究』、東京大学出版会、ISBN 4130260138
- 松本善海
- 「北魏における均田・三長両制をめぐる諸問題」『東洋文化研究所紀要』10、1977所収。
- 『中国村落制度の史的研究』(1977年、岩波書店、ISBN 4000013173)
- 宮崎市定
- 1935年「晋武帝の戸調式に就いて」、1957、1992所収。
- 1956年「唐代賦役制度新考」『東洋史研究』14、1993所収。
- 1957年『アジア史研究 1』(東洋史研究会)
- 1960年「トルファン発見田土文書の性質について」『史林』43-3、1993所収。
- 1992年『宮崎市定全集7 六朝』(岩波書店、ISBN 4000916777)
- 1993年『宮崎市定全集8 唐』(岩波書店、ISBN 4000916785)
- 吉田孝
- 1962年「日唐律令における雑徭の比較」、『歴史学研究』264