立花鑑寿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
立花 鑑寿(たちばな あきひさ、1769年5月1日(明和6年3月25日) - 1820年6月9日(文政3年4月29日))は、江戸時代後期の大名。筑後国柳河藩の第8代藩主。第7代藩主・立花鑑通の五男。母は後藤氏。正室は立花到真の娘。子に寿俶、娘(立花鑑賢室)、娘(安藤信義室)、娘(大久保忠保室)、娘(京極高朗室)。
明和6年(1769年)3月25日生まれ。幼名は常之進。はじめ家臣・立花通堅の養子となっていたが、寛政5年(1793年)8月に嗣子だった立花鑑一が父に先立って江戸で死去したため、嗣子に選ばれた。そして寛政9年(1797年)閏7月22日、父の隠居により藩主となる。官位は従四位下、左近将監。鑑寿は藩主としての支配権を強めるため、立花通栄らなどの家老らを解職し、さらに物頭などに蟄居を命じている(豪傑崩れ)。しかしあまりにやりすぎたため、家中で反対意見も強く、同年末には彼らを復職せざるを得なくなった。寛政11年(1799年)9月、亡兄・鑑一の遺児である立花鑑賢を養嗣子として迎えた。その後は藩札を発行するなどしている。
文政3年(1820年)4月29日、江戸にて死去。享年52。法号は陽徳院元剛紹和大居士。後を養嗣子の立花鑑賢が継いだ。
|
|
|