筒井嘉隆
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筒井 嘉隆(つつい よしたか 1903年 - 1989年)は日本の動物学者。理学博士。
藍問屋の三男として大阪市西区北堀江に生まれ育つ。旧制桃山学院中学校から旧制第三高等学校理甲を経て、1924年、京都帝国大学理学部動物学科に入学。京都帝国大学大学院修了まで川村多実二教授に師事。
1932年から大阪市の吏員として天王寺動物園に勤務。「(動物園は)興行師的立場を捨て去り、一般大衆に迎合することなく動物学的な高所に立って、市民を導いてゆかなければならない」という1936年の発言に、学者としての彼の姿勢がよくあらわれている。1945年から1946年まで天王寺動物園園長。のち大阪市教育局社会教育課に転属し、1950年の自然科学博物館設置条例制定に貢献。
1952年、大阪市立自然史博物館の初代館長に就任。1965年までこの地位にあった。のち、芦屋大学教授に就任。著書に『町人学者の博物誌』(河出書房新社、1987年)。
八重夫人(旧姓田宮、故人)との間に4人の息子がおり、長男の康隆はSF作家、次男の正隆(故人)は株式会社レンゴー勤務、三男の俊隆(のち下條姓となる)は電通の元常務取締役、四男の之隆は日清食品の元常務取締役。
嘉隆にとって康隆は30歳近くまで親のスネを齧っていた、兄弟の中で最も出来の悪い息子であり、親子関係は必ずしも良好でなかったが、康隆の『私説博物誌』連載に際しては動物学者として監修者を務めた。