箕作麟祥
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箕作 麟祥(みつくり りんしょう、弘化3年7月29日(1846年9月19日)-明治30年(1897年)11月29日)は、啓蒙思想家、法学者。名前の「麟祥」は「あきよし」とも読まれる。箕作省吾・しん夫妻の長男として江戸に生まれた。
父・省吾は箕作阮甫の婿養子で母・しんは阮甫の四女だが、父・省吾が若くして亡くなったので祖父・阮甫に育てられた。阮甫の死後、箕作家の家督を相続。1867(慶応3)年フランスに留学。明治維新後は官界で活躍し、東京学士院会員・元老院議官・法典調査会主査委員・貴族院議員等を歴任。特にナポレオン法典を5年間の歳月をかけて全訳した『仏蘭西法律書』(1874年)はその後の日本の民法編纂にも大きな影響を与えた。その一方、明六社員として啓蒙活動にも力を注いだ。死に際して男爵を授けられた。
先妻・もと(三沢精確の三女)との間に3男3女を、後妻・とを(大前寛信の三女)との間に四男・俊夫をもうけた。長男・泰一は1873年10月1日に1歳で、次男・正次郎は1876年10月1日に同じく1歳で夭折したので、麟祥の死後箕作本家の当主及び爵位は三男・祥三が継いだが、祥三が独身のまま他界したので祥三の死後その異母弟にあたる俊夫が家督と爵位を継いだ。また次女・茂子は1882年4月5日に12歳で早世したが、長女・貞子は動物学者の石川千代松に、三女・操子は物理学者の長岡半太郎にそれぞれ嫁いだ。
元日本大学農獣医学部教授の箕作祥一は麟祥の孫にあたる(祥一は俊夫の長男)。