紀霊
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[編集] 正史
魏書の呂布伝の注によると、紀霊は袁術の命令により3万の軍を率いて小ハイの劉備を攻撃したが、当時徐州を占拠していた呂布の仲裁により、やむをえず兵を引いたとある。呂布が、相当距離があるにも関わらず、戟を射る名人芸を披露した逸話が伝わる。紀霊のその後は不明である。
[編集] 三国志演義等
山東出身で、重さ五十斤(約11キロ)の三尖刀の使い手として登場する。劉備を攻めたときは、関羽と互角の勝負を演じるほど武勇に優れていた。この戦いでは正史と同様、呂布の仲裁により撤退している。激怒する袁術に、袁術の息子と呂布の娘との縁談を献策するが、この縁談は陳珪の策により頓挫する。その後の袁術の徐州親征の際には遊軍を率いて参加した。
やがて袁術が皇帝を僭称するものの敗戦と暴政のため人心を失い孤立すると、多くの配下は袁術を見限る中で、紀霊は最後まで袁術に従い、袁術が領土を捨てて袁紹のもとへ落ち延びる途中、袁術の追討を曹操から命じられた劉備の軍と戦い、張飛に討ち取られた。