張飛
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張飛(ちょうひ、生年不詳 - 221年)は中国三国時代に劉備と彼の建国した蜀漢に仕えた武将。『三国志 (歴史書)』では姓は張、諱は飛、字は「益德」で張益徳。なお、『三国志演義』では「翼德」で張翼徳としている。封号は新亭侯。諡は桓侯。子に張苞・張紹、敬哀皇后・張皇后がいる。
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[編集] 事績
涿郡(現在の河北省涿県)の人。同郡に住む劉備が黄巾の乱にのぞんで義勇兵を集めようとした時、関羽と共にその徒党に加わり、その身辺警護をつとめる事となった。以後は終生、劉備から兄弟の様な親愛の情を受けることとなった。また、関羽の方が数年年長であった為、関羽を兄のように敬愛して仕えていた。
やがて劉備が公孫瓚に取り立てられて平原郡の相となると、関羽とともに別部司馬に任じられ、それぞれが一軍を率いる将となった。
194年、劉備は身を寄せていた徐州牧・陶謙に位を譲られて徐州の牧となる。が、袁術との戦いの最中、呂布に留守を突かれて敗北。劉備と呂布は一旦は和睦するも、その後再び呂布に攻められた為、曹操の元に身を寄せる。
呂布を討たんとする曹操の軍に劉備とともに従軍。張飛はその戦いでの功績を認められて、曹操より中朗将に任命された。その後、劉備が曹操に背き、袁紹、劉表に相次いで身を寄せると、それにも付き従って、各地で転戦した。
208年、荊州牧・劉表が死ぬと、曹操が荊州に南下する。曹操を恐れた劉備が妻子も棄てて、わずか数十騎をしたがえて逃げ出すという有様の中、張飛は殿軍を任され、当陽の長坂において敵軍を迎えた。張飛が、川と二十騎の部下とを背にして橋を切り落とし、「我こそは張飛。いざ、ここにどちらが死するかを決しよう」と大声でよばわると、曹操軍の数千の軍兵はあえて先に進もうとはせず、このために劉備は無事に落ち延びることが出来た。
劉備は赤壁の戦いの後、周瑜に協力して荊州の南部四郡を攻略すると、張飛を宜都太守・征虜将軍として新亭侯に封じ、しばらくして南郡に転任させた。
211年、劉備が劉璋に招かれて益州入りした後、212年、法正らと謀って益州攻略を企てると、諸葛亮と共に援軍として後発。巴郡太守・厳顔を生け捕りにした。
張飛は、自身が大軍を率いてやってきたのに、厳顔が少数で抗い、降伏しなかったことに腹を立て、厳顔を詰問した。厳顔は「あなた方は無礼にも、我が州(益州)に武力をもって侵略した。我が州には首をはねられる忠臣は居ても、降伏する将軍はいないのだ」と張飛を面罵した。腹を立てた張飛は、部下に彼の首を切らせようとしたが、厳顔がそこでさらに「首をはねるなら、さっさとすれば良い。どうして腹を立てることがあるのだ」といったので、張飛は厳顔を見事だと思い、彼を釈放し、以後は賓客として扱った。
益州奪取における張飛の功績を劉備は評価し、諸葛亮・法正、そして荊州の留守を守った関羽らとともに金銀財宝を与え、巴西太守に栄転させた。
215年、曹操が漢中の張魯を降すと、張郃は巴西の住民を奪い、漢中へ移住させようと企てた。張飛は、張郃の軍と50日あまり対峙した後、精鋭の一万人ほどを率いて山道の隘路を利用して迎え撃つ計略を立てた。結果、張郃はその計略にはまり、狭い山道の中で軍が前後で間延びしたために各個撃破する事となる。こうして張飛は張郃の軍を撃退することに成功した。
219年、劉備が漢中を攻略すると、張飛は右将軍・仮節に任命された。
221年、劉備が蜀漢を建国すると、車騎将軍・司隷校尉・西郷公に昇進した。しかし同年、劉備が呉に対して荊州奪還戦の準備をしている最中、かねてから張飛に恨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺された。劉備は張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、その内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだ」と悟ったという。
[編集] 人物
『三国志』が注に引く『零陵先賢伝』(この文献自体は散逸)によると、張飛が士大夫の劉巴の元に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがにその態度に腹を立て、諸葛亮もまた劉巴と張飛の間を取りなそうとしたが、劉巴は「大丈夫(立派な男)たる者がこの世に生をうけたからには、当然、天下の英傑とこそ交友を結ぶべきです。どうして一兵卒(張飛のこと)と語り合う必要がありましょうか」と言い捨て、ついに張飛とは親交を結ぶことが無かった。
士大夫と庶人上がりの張飛との間に、厳然たる身分差と、それによる差別があったことが窺える。
魏略によると、張飛の妻は、夏侯淵の姪に当たり、三国志の魏書 諸夏侯曹伝 注の『魏略』に建安5年(200年)、張飛に捕らわれ妻となったが、その娘敬哀皇后・張皇后は二人とも後主の后になっている。 魏で、司馬懿による政権掌握の政争が起こったとき、夏侯覇はその伝手を頼って蜀に亡命してきている。
『正史・三国志』において、張飛は、程昱らには『一人で一万の兵に匹敵する』と、また劉曄には『武勇は全軍で群を抜く存在である』と評されており、周瑜にまで「張・関を従えれば大事業も成せる。」と評されるなど、その武勇は曹軍にも孫軍にも高く評価されていた。しかし、士大夫と呼ばれる知識人層には紳士的にふるまったものの、身分の低い者、兵卒などは軽視していた。しかも、治める場所では厳罰を適用し、しばしば死刑にした。それでいて、当り散らしたりなどした当の兵士を側に仕えさせていた。このことを劉備に常々注意されていたが、張飛は改める事が出来ず、ついに死に直結する事態を招くこととなった。
三国志を著した陳寿は、正史・関羽伝の最後に張飛の人物評も併せて載せ、このように括っている。
関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であった。関羽は顔良を切ることで曹操に恩返しを果たして去り、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていた。しかし、関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、これらの短所が仇となって、敢え無く最期を遂げる事となった。世の理とは、こういうものなのだろう(「關羽、張飛皆稱萬人之敵、為世虎臣。羽報效曹公、飛義釋嚴顔。並有國士之風。然羽剛而自矜、飛暴而無恩、以短敢敗。理數之常也」『蜀志・関羽伝』)
[編集] 三国志演義における張飛
『三国演義(三国志通俗演義)』では、字を翼徳(よくとく)とする。 「翼」と「益」が同音である事、燕人の異名があったことが混乱の原因と見られる。
『身長八尺、豹のようなゴツゴツした頭にグリグリの目玉、エラが張った顎には虎髭、声は雷のようで、勢いは暴れ馬のよう』と表わされる容貌に、一丈八尺の鋼矛・『蛇矛』を自在に振るって戦場を縦横無尽に駆ける武勇を誇る武将として描かれている。吉川英治の三国志では、黄巾賊に追われる劉備と初対面し黄巾賊から劉備を救った。
演義における張飛は、劉備の君子ぶりをアピールするために、粗暴な役回りを押しつけられている部分が多い。 たとえば、黄巾の乱の後、劉備が県尉と言う低い役職が不満で督郵を鞭打ったことがあるが、演義では、聖人君子である劉備像を壊さない為に、劉備に賄賂を要求した督郵を、張飛が乱暴したことにされている。
若い頃は、戦場では蛮勇を振るうものの、戦の後の宴席では酒にまかせて暴力を振るった為に、部下達に信頼されていない情景が描かれている。極めつけは、劉備が袁術を叩く為に軍勢を出した時、その留守役として下邳(かひ)を守っていた際に起こった事件。泥酔した隙をつかれ、呂布とその軍師の陳宮の計略にひっかかり、部下に反乱され、主君である劉備の妻子を城もろともに奪われ、曹操の下に身一つで転がり込む原因を作っている。
呂布滅亡後、曹操と不仲になり徐州に攻め入ってきた曹操部下の劉岱に対し合戦をする前に張飛軍が兵の士気を上げるために酒盛りをするが、途中で張飛が暴れ部下に暴行し部下が劉岱の元へ走って逃げ劉岱に張飛軍の内情を渡す。だが、これは張飛の策であり部下の内情を信用したまま攻めてきた劉岱軍の裏をかいた攻撃をし劉岱を捕らえるとある。
官渡の戦いの後には、山賊にまで成り下がり、劉備のもとに戻ろうと合流を望む関羽を裏切り者呼ばわりして襲いかかるなど、血の気が多く、短慮な所も見せている。
劉備が諸葛亮を迎えた時には、劉備が自分と彼を『水と魚のようなもの』(水魚の交わり)と例えた事に嫉妬を覚え、後に諸葛亮が采配を振るうことになった時には、関羽とともに反発している。しかし、采配が見事に的中すると、手のひらを返したように今度は諸葛亮をベタ褒めして信頼を委ねるようになる。良い意味での裏表の無い、愛すべき稚気をもった姿が描かれている。
益州入りの後には、張郃を相手に智謀をめぐらして勝利を得る張飛の成長した姿が描かれている。
しかし、最後には、義兄弟である関羽を失った事で荒れ狂い、元の乱暴者に戻ってしまい、結果、破滅するという悲劇的な末路を描いた所で、演義は『張飛』という人物を締めくくっている。 このとき五十五歳と記され、167年の生まれと設定されていた事がわかる。
明代に成立した笑府にも周倉同様登場するなど、他の三国時代の人物に対し、より庶民に愛される存在として伝承されてきた。
張飛が督郵を鞭打つ場面と長坂橋で曹操軍の前に仁王立ちする場面は、京劇などで特に人気が高く大向こう受けするという。