ノート:継体天皇
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本文で議論をしないでください。両論併記にするか、ここで決めて本文に反映してください。以下に削除前の本文を掲載します。--ろう 2006年5月26日 (金) 03:46 (UTC)
[編集] 異説
隅田八幡神社(和歌山県橋本市)旧蔵の人物画像鏡(国宝)の銘文に、
本文『癸未年八月曰十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』
「癸未の年八月曰十大王の年、男弟王(おおどのきみ)意柴沙加宮にいましし時、斯麻(しま)長寿を念じて開中費直(かわちのあたえ)穢人(あやひと)今州利(いますり)の二人らを遣わし、白上銅二百旱を取りてこの竟(鏡)を作る」(判読・解釈には諸説あり)
とある。この解釈に従えば、「癸未」を503年、「男弟王」を継体に比定することも可能である。 「曰十大王(仁賢天皇?)」の503年、既に即位前の継体(仮にオオド王と呼ぶ)が大和の意柴沙加宮(おしさかのみや。奈良県桜井市忍坂)にいたことになれば、世間に流布しているような継体像 ──越前出身の継体が畿内勢力の抵抗に遭い、20年に渡って大和へ入れなかった── はまず成り立たない。また、オオド王の長寿を祈って鏡を作らせた「斯麻」は百済の武寧王のことと考えられ、鏡は百済王よりオオド王に贈られた品と見られる。 このような百済王と(まだ大王ではない)オオド王との通交が事実ならば、軍事・外交上の手腕が大王の権威を裏打ちしていた当時において、オオド王は内外から外交の主体者、すなわち大王(倭王)に準ずる地位を認められていたと言えよう。
しかしながら、この説は本質的に大きな問題天を含んでいる。それは、かつて忍坂大中津姫の宮地であったとはいえ、その50年後にも宮を付して呼んだかどうかである。古事記、日本書紀の用例を見る限り、その時代の大王あるいは大后の居住地のみが宮であり、過去のものにそれを付した用例を知らない。宮というのは,建物の意味では決してない。また、斯麻を武寧王とする根拠も明確でない。斯麻が武寧王なら、通常は百済王斯麻と書くべきである。また、百済王が何ゆえ開中費穢人(百済人ではなかろう)に鏡を作らせたのか、通常の観念では理解できない。これらの観点からすれば、「癸未」を443年、「男弟王」を継体の曽祖父である意富富杼王(おおほどのおおきみ)に比定するのが無理のない説である。この場合、大后忍坂大中津姫の弟という意味で、音だけでなく字意も一致する。当時の習慣からしても、兄弟は姉妹と同居が通常である。鏡の編年についても、443年では合わないという積極的な理由はない。503年節は、いずれにしても文献学的にはあまり学問的な議論とは言えない。
意富富杼王については、その后の中斯知命は大后の中蒂姫のこととされており、その子の平非王は、伯母も大后の忍坂大中津姫であることから、大王の有力候補となる。具体的には、雄略の次の清寧の可能性が高い。清寧の真陵は、年代的にどう見ても古市古墳群(息長系氏族墓)の前の山古墳である。この古墳は、継体の真陵である今城塚古墳とほとんど同じ大きさである。そのあたりをもう少しきちんと検討して、継体の問題を整理する必要がある。
- ミヤ(御屋)の原義は「建築物」そのものです。古事記・日本書紀・風土記には、和知都美命の淡路御井宮、菟道稚郎子の菟道宮、押磐皇子の市辺宮、弘計・億計の柴宮、押坂彦人大兄皇子の水派宮、穴穂部皇子の宮、厩戸皇子の上宮・斑鳩宮など、多くの王子宮の存在が記されており、「大王あるいは大后の居住地のみが宮」という貴殿の主張は正しくありません。また、こうした宮は一代限りのもの(いわゆる歴代遷宮)ではなく、本質的に伝領される性格を有していたことは既に論証されています。忍坂の地が永らく息長氏の流通・政治拠点であったことは、当地に舒明陵があることからも分かるように、異論のないところです。
- 「通常の観念」とは何でしょう? 倭王権の擁立した東城王を排斥して即位した武寧王が、倭との修交関係の維持を図り、倭系渡来人を遣わして鏡を作らせたと思われます。王号がないのは、その目的から形式上従属的な態度を表したまででしょう。
- 503年説以上に、443年説には問題が多いかと思います。ヲオト(男弟)はヲホト(小ホト)に近く、オホホト(大ホト)と同一視することは無理があります。なお、意富富杼王はその名から本来継体の兄であったと考えるのが妥当で、応神~継体を接合する際に系譜に架上された人物でしょう。忍坂大中姫もナカツヒメ原理に従って創作された人名とする説があります。また、「中斯知命=中蒂姫」説も上宮記の用字から見て適当とは思われません。443年説を主張するには、帝紀批判を十分行った上で、これらの人物の実在性を支持する論拠が求められます。この点において、503年説は今日まで実在に異論のない継体を論の中心に据えており、443年説以上の説得力を持っているのです。貴殿は「文献学的にはあまり学問的な議論とは言えない」として503年説を退けられますが、同時代銘文を後世の文献に短絡させることこそ文献学的な議論ではないと思います。125.2.91.34
503年という事は、武烈天皇が存命中ですから、百済の男弟王と見るのは無理があるのでは。利用者:マカロニサラダ 2006.7.15(土) 12:10 (UTC)