織田信武
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織田信武(おだ のぶたけ、明暦元年(1655年) - 元禄7年10月30日(1694年12月16日))は江戸時代の外様大名。大和国宇陀松山藩主(2万8000石)。幼名は乱麻呂(らんまろ)。初名は長国、長通。通称は右近(うこん)。官位は従四位下侍従・出雲守(いずものかみ)、伊豆守(いずのかみ)。また織田信長の自称を信じるなら本姓は桓武平氏であるので、正式な名乗りは平信武(たいら・の・のぶたけ)となる。
[編集] 経歴
明暦元年(1655年)、第三代宇陀松山藩主織田長頼の長男として江戸で誕生。生母は津川氏。寛文6年(1666年)7月10日、将軍徳川家綱にはじめて拝謁。寛文12年(1672年)12月28日には従四位下出雲守に叙任した。延宝5年(1677年)7月11日智姫と結婚。元禄2年(1689年)6月6日、父の死去により家督を相続する。信武が継いだこの松山藩織田家は2万8000石の陣屋外様大名に過ぎなかったが、織田信長の次男織田信雄の直系にあたるということで、その当主には従四位下侍従の官位と国主大名格が与えられていた。元禄3年5月11日藩主として初めてのお国入りの許可を得る。元禄4年6月25日清姫と再婚。
元禄7年(1694年)10月晦日松山陣屋において信武は突然自殺する。享年40。幕府は、旗本浅野長恒らを松山に派遣して調査し、この騒動の責任を織田家に問い、長男信休を丹波国柏原藩2万石に減転封とした。またこのときに従四位下侍従の官位を与えられる格式と国主大名の格式も一緒に剥奪され、信休以降の当主は通常の従五位下諸大夫の小外様大名として扱われるようになった。
正室は徳川光友の養女智姫(実父広幡忠幸、死別)。継室は同清姫(実父広幡忠幸)。長男信休、長女(松平義昌の養女、内藤政貞室)ら二男一女の子女あり。
[編集] 自殺の謎
信武の自殺は、公的には乱心となっている。実際は宇陀崩れというお家騒動のためであった。宇陀松山藩の家臣団は初代信雄から仕えた古参衆と二代高長から仕えた加賀衆の二派に分かれていた。四代信武の治世、加賀衆に含まれる中山助之進正峯と古参衆が財政政策をめぐり対立を激化させた。 その結果、元禄7年9月下旬、藩主信武は古参衆の田中五郎左衛門安定を手討ちにした。さらに、病気を理由に登城を拒否した生駒三左衛門則正に藩士を遣わし、一族もろとも討ち果たすにいたった。この事件は、世間に広く知れ渡り、翌月動揺した藩主信武は自殺するにいたったようである。なお、中山は柏原転封後も織田家に出仕している。
なお、『土芥寇讎記』には「信武、文道ヲモ少ハ学ビ、武法ヲ専ラトス。行跡寛然トシテ、奢ル事ナク、家民ヲ哀憐シ、仁勇有テ、侫曲ノ志ナク、誉ノ将ト唱フ。舞楽ヲ好ム事ハ、父長頼ノ代ノ如シ。惣テ父ノ行跡ニ似テ、悪事ナシト聞フ」とあり、当時評価の高い大名の一人であった。
[編集] 関連
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