宇陀松山藩
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宇陀松山藩(うだまつやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁として松山(奈良県宇陀市大宇陀区)に陣屋が置かれた。
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[編集] 藩史
宇陀松山藩の藩祖は、有名な戦国時代の覇王・織田信長である。信長が1582年の本能寺の変で散った後、織田氏は信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝の両統に分裂する。1583年の賤ヶ岳の戦いで信孝が羽柴秀吉の命により自刃を余儀なくされた後、織田氏は信雄系統が主役となるが、1584年の小牧・長久手の戦い以後は信雄自身が暗愚ということもあって、天下への表舞台の影響力を急速に失う。そして小田原征伐後、信雄は尾張国から駿河国への移封を拒絶したため、信雄は所領を没収され、下野国に流罪とされてしまった。このとき、信雄は常真と号している。
1600年の関ヶ原の戦いで信雄は西軍に与したため、戦後に改易された。しかしその後、信長の子であるという所以から徳川家康の計らいにより、大和国と上野国両国内に合わせて5万石を与えられた。そのうえ、大和の国主格も与えられた。
この間、関ヶ原の戦いの功績により福島高晴が3万石余で伊勢国長島から加増転封されて入るが、1615年の大坂夏の陣で豊臣氏に内通した嫌疑をかけられて改易され、信雄が再び入封する。
信雄は、上野の領地を四男の織田信良に与え、自身は大和2万8000石を領した。1630年の信雄死後、家督は六男の織田高長が継ぐ。その後、織田長頼・織田信武と続くが、信武は突如として発狂して精神異常者となり、重臣を斬り捨てて自分も自殺してしまうという事件を起こした。信長の血統であるということを重んじられて、信武の子・織田信休への家督相続こそ認められたが、所領を2万石に減らされた上で丹波国柏原藩へ減移封。国主として扱われていた待遇も、このときに剥奪されてしまった。なお、宇陀松山藩もこれをもって廃藩となった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 福島(ふくしま)家
3万1717石(外様)
[編集] 織田(おだ)家
2万8000石(外様)
- 信雄(のぶかつ)〔正二位、内大臣〕織田信長の次男。
- 高長(たかなが)〔従四位下、出雲守・侍従〕織田信雄の六男。
- 長頼(ながより)〔従四位下、山城守・侍従〕織田高長の次男。
- 信武(のぶたけ)〔従四位下、出雲守〕織田長頼の長男。
- 信休(のぶやす)〔従五位下、山城守〕織田信武の長男。