織田信秀 (信長の六男)
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織田 信秀(おだ のぶひで、元亀2年(1571年)頃? - 文禄年間(1592年-1596年))は織田信長の六男。祖父と同名。幼名は大洞。通称は三吉、三吉郎。官位は従四位下侍従。羽柴姓を授かっており、通称と官位から、羽柴三吉侍従との通称がある。
父信長の死後、豊臣秀吉に仕えて、九州出兵に従軍している。天正13年(1585年)7月従四位下侍従に叙任する。天正15年(1587年)頃、キリスト教に入信した。当時、信秀の年齢は17歳位で大坂に暮らしており、近江にいた生母(名前は分かっていないが、信秀が侍従の官位を授けられていることから、身分は相応に高かったものと推定される。すぐ下の弟信高の幼名から考えてお鍋の方である可能性もある)は授洗を怒り、大坂までやってきたが、これを諭し逆にキリスト教の理解者にしてしまったというから、聡明な人物であったのであろう。
[編集] 秀吉の秘蔵っ子?
文禄の役にも300人を率い、肥前名護屋に駐屯している。所領石高は不明ながら、この軍役動員を根拠として、2~5万石級の所領を得ていた可能性が指摘されている。これは秀吉に仕えた信長の息子達の中では信雄を除けば異例の高禄であり、これをもって秀吉が彼に期待していた証拠とする書物、論考もある。ただし、信雄の下で彼の上の兄である信孝、秀勝、勝長が既に死亡しておりこの時点では信長の息子達の中で次兄の立場にあったことなども考慮せねばなるまい。
[編集] 謎に包まれた後半生
信秀の晩年については『織田家雑録』によれば、文禄年間、京都でライ病のために病死したという。が、断定するにはやや証拠不足、根拠薄弱のきらいがあり、本当にこの時期に死んだのかどうかは分からない。
晩年は剃髪し、浦坊(法名としては珍名の部類に入るらしく、洗礼名を音訳したものとの説がある。もし事実とするならば「浦」という文字から、また信長との縁故の深いパードレにちなんでおそらくウルガン、オルガンティーノといったところを名乗っていたのであろう)と号しており、死亡説が事実でないとするとキリシタン禁教を受けて棄教あるいは棄教のうえ隠居したと思われる。剃髪していることから、改易された可能性もある。剃髪の理由が改易ならば秀次事件に連座したのかも知れない。関ヶ原、大坂役に参陣しての改易・処断であれば、何らかの記録が残っているものと思われ両役との関連は薄いと思われる。
いずれにせよ、豊臣時代の末期にはすでに歴史の表舞台から姿を消していたのは事実のようである。死後は京都の大徳寺総見院に葬られた。正室は稲葉貞通の娘。子女は長男重治、次男虎法師、長女(西尾氏教妻)の3人である。