九州征伐
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九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)は、羽柴秀吉と島津氏の軍との戦いである
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[編集] 島津氏の九州統一
九州地方は当時、薩摩の島津氏が統一目前まで進んでいた。 豊後の大友宗麟は、その島津氏の圧迫を回避するため、当時近畿、四国、中国を平定し天下統一の道を歩んでいた秀吉に助けを求めることになる。
これを受け秀吉は、1585年(天正13年)10月島津氏に降伏を勧告するが(惣無事令)、島津氏はこれを拒絶した事から始まる。
[編集] 経過
島津氏は、九州統一の総仕上げとして、大友氏所領である豊前・豊後と筑前を残すのみとなっていた。 1586年(天正14年)6月筑前侵攻を開始、筑前の西半を制したが、高橋紹運、立花宗茂らの強い抵抗に遭い制圧を断念、豊後侵攻へ方針を転換した。
一方、秀吉は同年9月に毛利氏に出陣を命じ豊前へ向かわす、長宗我部氏にも大友氏と合流させ作戦を開始、島津氏の豊後侵攻軍と正面衝突することとなる。最初のうちは、大友氏の内訌等もあり、島津氏優勢に進行。10月戸次川の戦いにおいて、豊臣方は長宗我部元親の長子信親、有力武将十河存保を失うなど大敗を喫した。
翌1587年(天正15年)正月、業を煮やした秀吉は九州侵攻の軍令を下し、3月には自らも出陣、肥後方面を秀吉が、日向方面を弟秀長が率い、合わせて20万を数える圧倒的な物量と人員で進軍。北部九州においては、島津氏の支配が表面的な占領軍政に過ぎなかったこともあり、瞬く間に島津氏の支配している城を陥落させ、島津氏は、後退を続けていくだけの状態が続いていく。
4月、島津義久は降伏した。戦いが始まり半年あまりであった。島津氏は九州の大部分の支配地域は召し上げられたが、義久が下った後も、義弘、歳久らの抵抗が続き、石田三成と伊集院忠棟による戦後処理の結果、薩摩、大隅の2国を安堵され九州征伐は終える。
[編集] 影響
この結果、豊臣秀吉は西国の平定を完了し、残る東国へと目を向ける事になる。
[編集] 関連
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