織田長次
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織田 長次(おだ ながつぐ、天正?年 - 慶長5年9月15日(1600年10月21日))は、織田信長の11男。
[編集] 生涯
信長の末子で、幼名は縁。通称を長兵衛尉という。母は不明。天正10年(1582年)の信長の死後、豊臣秀吉の家臣となり、その馬廻りとなった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与し、兄・織田信吉とともに大谷吉継の隊に所属して戦ったが、9月15日の本戦で大谷軍壊滅の際、平塚為広らとともに戦死した。
[編集] 謎の人物
長次は関ヶ原で戦死し家が断絶したこともあって、確認されている信長の息子達の中では最も情報が少なく謎の人物となっている。分かっている情報から背景を推測してみよう。
- 諱字から、豊臣秀次に付属されていた可能性が考えられる。大道寺直次、田中吉次など、秀次に仕えていた武将には「~次」の諱を持つ者が多く、まず確実であろう。秀次から一字拝領したとすれば天正13年から文禄4年の間に元服したということになる。元服時期は天正末期から文禄年間と思われる。逆算して生年は天正年間の前半、天正2年から10年の間であると比定される。
- 最終経歴が秀吉の馬廻すなわち親衛隊将校であることから、それ以前にも主君に近侍する小姓組などに在籍していたと思われる。比定された元服時期と諱が秀次からの一字拝領である可能性が高いことから考えて、前歴は秀次の小姓であったと思われる。
- これらのことから関ヶ原の戦いに出陣し、戦死したときには20代前半だったものと推測される。この年齢で馬廻という身分であれば、まだ正室を迎えていなくても不思議ではない。しかし出陣・戦死が記録に残っていることから、微禄、小身の士であったとは思われない。馬廻という身分を考えるに、おそらく1000石級の知行を得ていたであろう。兄・織田信貞も馬廻で1000石である。1000石級の豊臣直参ということは、相応の官位を得ていておかしくない。すぐ上の兄・織田信好が従五位下、左京亮であることから、従五位下相当の官に任官していた可能性が高い。
- 戦死を記した記録に『能兵』という言葉が登場し、武勇に優れていた可能性も考えられる。馬廻という職分を考えるに、槍術が巧みであったか。
- 他の兄でなく信吉と行動を共にしていることから、緊密な関係ひいては所領の位置が近いことが推測される。おそらく近江国内に所領を得ていたものと思われる。美濃国内に所領があったとすれば、織田本家の当主である岐阜城の織田秀信に従って戦っていたと思われる。尾張国内に所領があったのであれば、確実に東軍についているだろう。
- 信吉とは幼名にも関連性が見られ、2人セットで幼名をつけるという信長の下の息子達のパターンにはまり、少々弱いものの信吉の同母弟であったとも推測しうる。最低でも、母親がお鍋の方と近い位置にいたと考えることは可能である。