羅憲
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羅憲(らけん、218年? - 270年)は、三国時代の蜀の武将。字は令則。広漢太守羅蒙の子であり、甥に羅尚がいる。羅式の弟、羅襲の父、羅徽の祖父。
荊州襄陽郡の人。父に従って蜀に移り住んだ。 主に政治家や外交官として功績を挙げていたが、国政を専横していた黄皓に対して正論を言い続けたため、黄皓の怨みを買って巴東太守に左遷され、中央から遠ざけられた。
263年、蜀が魏に降伏したときは永安城を守っていたが、その地を併合しようと呉軍が侵攻してきた。羅憲は魏に服従の意を示して呉軍に反攻し、寡兵で懸命に城を守った。さらに呉軍は名将陸抗を戦線に投入するが、羅憲は懸命に防戦を続ける。 このとき、城内で病気が流行したが、羅憲は住民を見捨てなかった。結果、半年後に胡烈が援軍としてやってくるまで防衛を続け、呉軍が引き揚げざるを得なくなったと言われている。その後も西晋の将として呉の城を攻め取る功績を上げている。
また、魏に陳寿を推挙したことでも知られている。
羅憲は国が滅んでも民衆を守るために戦った武将として、魏にも、そして後世の史料においても名将として高く評価されている。しかし、このような名将であるにも関わらず、三国志演義には記述が無い。