黄皓
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黄皓(こうこう 生没年不詳)は中国三国時代に蜀漢に仕えた宦官。皇帝劉禅の寵愛を受けて政治を乱し、蜀の滅亡を招く一因となった。
諸葛亮の死後に劉禅に寵愛されて引き立てられるが、監視役の董允の存命中は黄門丞という低い役職のままであったが、陳祗が董允の死後に後任に付くや、結託して政務に預かるようになり、黄門令に昇進。陳祗の死後は一気に中常侍に昇格し、国の実権を握るようになった。 景燿五年(262)、大将軍の姜維を追放し、代わりに閻宇を立てようと画策した。姜維は黄皓を処刑するよう劉禅に請願したが聞き入れられなかったため、以降姜維は成都に帰還しなくなった。 翌年、魏が攻撃準備していると姜維から援軍要請があったが、黄皓が握りつぶした。魏の攻撃で蜀は滅び、黄皓も殺されそうになったが、魏将に賄賂を渡した事から死を免れた。
三国志演義では史実よりかなり早く、諸葛亮存命中から権力を握った佞臣として登場する。魏から賄賂をもらって姜維を北伐の前線から呼び戻すなどして私腹を肥やす悪辣な人物として描かれる。蜀滅亡の直前には劉禅に巫女の神託による政治を勧めて軍の派遣を阻んだり、江油城が落城したことを隠蔽したりと滅亡を招いた最大の原因となっている。成都を攻略した鄧艾によって処刑されそうになるが、その部下に賄賂を渡して一時死を免れる。しかし最後には司馬昭に五体を切り刻まれて処刑された。