美的価値
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美的価値(びてきかち、aesthetic value)とは、芸術作品に見られる「芸術美価値」、芸術以外の人工物に見られる「人工美価値」、自然物に見られる「自然美価値」の総称である。
西洋の近代以前の芸術的な見方だけでは、東アジアや日本での、自然を賞美する紅葉狩り、月見、盆栽、水石などの習慣や、華道など伝統的な芸道を十分に説明することができない。たとえば、日本庭園、盆栽、水石などでは、芸術美価値、人工美価値、自然美価値の3つが混じり合って存在しているといえる。
まず、石の配置や素材、大きさ、バランスなど人間の意図と作者の存在を前提とした「芸術美価値」がある。これは特定人物の「作品」といいうる要素である。また、それ自体いわゆる意図された芸術性を持つものではなく、特定の条件がそろうことで後天的に美的価値を呈する「人工美価値」もみられる。歳月の流れによる崩壊・摩滅・退色・苔など、素材に対する「経年変化」は、自然美価値の要素もあるが、非芸術的な「人工物」に発生したという意味では人工美価値である。
一般に日本では「時代がつく」ということがあらゆる作品でごく当然とされているため、経年変化の美的価値はあらためて意識されることはない。そのため、芸術美価値と人工美価値は一体として考えられることが多い。これは日本人がしばしば西洋的な芸術の意味(特にそのユダヤ・キリスト教的文化背景、自然と人間の対立、「作者」の存在など)を誤解しているということでもある。著作権を認め、重視する(その上で放棄する場合は自由意思に基づき放棄する)西洋の文化と、そもそも作者や著作権という概念が希薄な日本の文化の違いでもある。
西洋の文脈の中では経年変化に美的価値を認めるということは、理解不能ではないにせよ、日本ほど当然として行われているわけではない。西洋の伝統絵画でも、廃墟を画題とする例などはある。しかし、原則として「古くなった壁は塗り直す」のが西洋的な発想である。これに対し、日本の伝統的な美的価値では古いままをよしとすることが多い。さらに、植物などの自然そのもの、周囲の景観を含む借景や、季節や天候の影響などの「自然美価値」も大きな要素である。これらの要素をいったん分解して考えることで、日本の美的価値をよりよく理解することができよう。人工美価値に基づく美意識の例としては、「いき(粋)」、キッチュなどが挙げられる。
また、世界規模で見た場合、近代以後は、芸術の概念が広がり、さらには芸術という枠組みを越えたさまざまな活動が行われている。日本語では語としての美的価値には「美」という字が含まれており、「美」と美的価値は同義の場合もあるが、特定の議論では区別した方がよい。美的価値とは美よりも広い概念であり、「醜い」ものでも場合によっては美的価値を備えているといえる。美の概念を拡張して「美にも醜が含まれる」という言い方もできるかもしれないが、議論が複雑になり誤解を招くことは避けられない。ここで美的価値という中立的な概念を使えば、このジレンマは避けられる。また「美」という語を使う場合には、西洋美学上での議論が中心となり、自然美や人工美についての立場は顧みられないことも多い点にも注意すべきである。
人工物については、キッチュや超芸術トマソンのように、制作者の意図や芸術家としての技能とはまったく無関係に人工美価値が発生する場合がある。なお、美的価値という普遍的な見方からすれば、「作者が不在」であるトマソンをあえて「芸術」と呼ばなくても、その面白さが減るわけではない。芸術と呼ばなければ価値を認めることができないというのは、卑屈な見方かもしれない。また、美的価値は経済的価値と相関関係にあるわけではない。一粒の水滴に無限ともいえる美的価値を見いだすこともある。そこに作者はいない。それは芸術ではないし、芸術と呼ぶ必要もない。しかし、その美的価値は確かに存在するものである。