聚光院
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聚光院 | |
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山門 |
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所在地 | 京都府京都市北区紫野大徳寺町58 |
位置 | 北緯35度2分38.44秒 東経135度44分43.21秒 |
山号 | (大徳寺塔頭) |
宗派 | 臨済宗大徳寺派 |
本尊 | |
創建年 | 永禄9年(1566年) |
開基 | 三好義継 |
正式名 | |
別称 | |
札所等 | |
文化財 | 方丈障壁画38面(国宝) 方丈(本堂)、茶室、絹本著色三好長慶像(重要文化財) 百積の庭(名勝) |
聚光院(じゅこういん)は京都府京都市北区紫野にある臨済宗大本山大徳寺の塔頭のひとつである。聚光院という名は三好長慶の法名「聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門」から採られたものである。
目次 |
[編集] 歴史
室町幕府12代将軍・足利義晴に仕えた三好長慶(みよしながよし)の養子・義継が永禄9年(1566年)に養父の菩提を弔うために笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)を開山として建立。千利休が開祖・笑嶺和尚に参禅したことから利休の墓をはじめ,三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)歴代の墓所となっている。
[編集] 建造物
- 方丈(重要文化財)
- 閑隠席(かんいんせき)(重要文化財)
- 利休150回忌の寛保元年(1741年)に表千家7世・如心斎が造り、寄進したもの。三畳中柱入りで床の間は下座床、炉は台目切りとする。中柱と床柱はともに赤松皮付きで、点前座の天井は一段低くなった落天井とする。かつては千利休自刃の席として伝えられていた。
- 桝床席(ますどこせき)(重要文化財)
- 閑隠席と同じ建物内、水屋を隔てて東側にある茶室で、枡形(正方形)の踏込床があるため桝床席と呼ばれる。四畳半平面のうちの半畳を床の間とした形式で、炉は床の間に接して向切りとする。この桝床は表千家六代・覚々斎原叟の好みと伝わる。
- 千利休墓
- 三千家の歴代墓地が並ぶ中央に位置する高さ約2mの宝塔で、もとは船岡山にあった供養塔を生前に利休が愛し,没後自らの墓標としたと伝わる。
[編集] 庭園
- 方丈庭園(百積の庭)
- 千利休作と伝えられている方丈前の庭で、苔庭に直線上に庭石を置き,石組みの多いことから「百積(ひゃくせき)の庭」といわれる。国指定名勝。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 方丈障壁画 38面(附8面)
- 花鳥図 16面
- 「室中」の間の障壁画。狩野永徳24歳の作。松・竹・梅にオシドリ・セキレイ・丹頂鶴などを組み合わせた花鳥図で、生命力にあふれている。
- 琴棋書画図(きんきしょがず)8面
- 「檀那の間」(上の間)の障壁画。狩野永徳の作。中国の士大夫(科挙出身の高級官僚)に必須とされた琴、棋(囲碁・将棋)、書、画に耽る姿を絵画化したものである。室中の間の「花鳥図」が行体で自由奔放に描かれているのに対し、この図は楷体で謹厳な筆致が特色である。
- 瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)8面
- 「礼の間」(下の間)の障壁画。古来より景勝の地として文人墨客がしばしば訪れた瀟水と湘水の合流する洞庭湖周辺の8つの風景を描いたもので、永徳の父・狩野松栄により描かれたものである。
- 竹虎遊猿図 6面
- 檀那の間の北側(裏)の「衣鉢の間」の障壁画。狩野松栄作。
- 蓮鷺藻魚図(れんろそうぎょず) 8面(附指定)
- 仏間の仏壇下小襖の絵。
[編集] 重要文化財
- 方丈(本堂)
- 茶室(閑隠席、枡床の席、水屋、六畳2室からなる)
- 絹本著色三好長慶像