自由律俳句
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自由律(じゆうりつ)とは、五七五の定型俳句や五七五七七の定型短歌に対し、音数にとらわれない主張、またはその作品をいう。 俳句では季語にも縛られず、心の動きをそのまま自由に、かつ自然に表現するとする主張もあるが、通常は一句一律、内容に即した律を持つという主張である。これを内在律ともいう。 文語や「~たり」「~けり」「~かな」などの古典的な言葉遣いを避け、現代口語で表現するということも特徴の一つである。
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[編集] 沿革
[編集] 俳句
明治時代後期、河東碧梧桐が新傾向俳句を創作したことに始まる。明治44年(1911年)に荻原井泉水が俳誌『層雲』を主宰し確立された。当初、碧梧桐も層雲に加わっていたがのち離脱した。
大正時代になると自由律俳句を代表する俳人として層雲より尾崎放哉、種田山頭火が登場する。
一方、層雲を離脱した碧梧桐は大正4年(1915年)、俳誌『海紅』を主宰。中塚一碧楼がこれを継ぎ自由律俳句のもう一つの柱となった。尚、この一碧楼が自由律俳句の創始者とする見方もある。
しかしながら、自由律俳句は放哉、山頭火の活躍した大正時代~昭和初期以降衰退している。
昭和時代の終盤に放哉に影響を受けた夭折の俳人住宅顕信が登場する。
平成に入り、山頭火がクローズアップされ自由律俳句の再評価がなされている。 また現実の人物ではないが、いがらしみきお作のぼのぼのに登場するオオサンショウウオのおじいさんが 詠んでいることでもしられる。
[編集] 短歌
大正時代、1924年に、石原純の発表した歌が、歌壇において注目を集めた自由律の最初であろう。石原純は、その後、自由律短歌論を展開。やがて、この名称を定着させた。石原の自由律短歌は旧来の文語体ではなく口語体を採用していたため、自由律短歌はそのまま口語短歌運動と結び付き、口語自由律短歌として発展してゆく。
昭和時代になると、金子薫園、土岐善麿、前田夕暮も参加し、口語自由律短歌は興隆期を迎える。特に、前田夕暮は、主宰する結社全誌をあげて自由律を提唱し、自由律短歌集を次々と刊行して、口語自由律短歌の代表作を残した。
しかし、昭和十年代なかばには、全員、定型歌に復帰している。
昭和末期、ライトヴァース短歌と呼ばれた、加藤治郎、荻原裕幸、穂村弘らが発表した、記号短歌や、散文に近い、字余り・字足らずの多い短歌群は、昭和初期の口語自由律に通じるものとも言えよう。
[編集] 代表句
- 咳をしても一人
- 足のうら洗へば白くなる
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- -放哉-
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- 分け入っても分け入っても青い山
- うしろすがたのしぐれてゆくか
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- -山頭火-
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