菊池武経
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菊池 武経(きくち たけつね、1480年(文明12年) - 1537年(天文6年))は、阿蘇氏の第17代当主(阿蘇神社大宮司)、後に菊池氏の第24代当主。阿蘇惟憲の子。阿蘇惟前の父。
初名は阿蘇惟長(あそ これなが)といい、阿蘇氏の大宮司を継いでいたが、野心逞しい惟長は菊池氏の衰退に付け込み肥後守護職への野心を露わにしていった。惟長は肥後国への勢力拡大を図る豊後国の大友義長と結託し、菊池氏の重臣達に圧力を掛けた。城氏・赤星氏・隈部氏らの菊池氏重臣は、1505年に菊池氏当主で肥後守護職の菊池政隆を排除して阿蘇惟長を新たな守護として迎える起請文を提出した。1507年、阿蘇惟長は大友義長の支援を得ると隈府城へ侵攻し、菊池政隆を隈府城から追放した。
こうして、惟長は隈府城に入り「菊池武経」と名乗り、肥後守護職の簒奪に成功したのである。この時、阿蘇大宮司職を弟の阿蘇惟豊に譲っている。
肥後守護職となった惟長であるが、名目だけの肥後守護職であり、所詮は大友氏の傀儡であることを思い知らされた武経は、次第に自暴自棄となり、驕慢な振る舞いが目立つようになった。家臣も武経を疎んじ、両者の関係は悪化の一途を辿った。
1511年、我慢の限界に達した武経は隈府城から出奔し、矢部へと戻った。しかし大宮司職は弟の惟豊に譲っており、武経は居候扱いであった。それでも野心逞しい武経は島津氏と結託し、大宮司職の奪還を計画。1513年、島津氏の支援を受けた武経は惟豊側を攻撃し、惟豊は日向国に逃亡せざるを得なくなった。武経は嫡男の阿蘇惟前を大宮司職に据えると、「阿蘇惟長」の名に復して実権を掌握した。
1517年、甲斐親宣らの支援を得た阿蘇惟豊は逆襲に転じ、敗北を喫した惟長・惟前父子は薩摩国へと逃亡することとなる。
1537年、堅志田城で、58歳の野心に満ちた生涯を終えた。
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