蘇峻
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蘇峻(そしゅん、生年不詳 - 329年)は、中国の東晋の武将。字を子高といい、父の蘇模は安楽相であった。長広郡掖県の人で、西晋末期に育つ。若くして書生となり、才能を認められて郡の主簿となっていたという。
折しも当時は、八王の乱とそれに続く永嘉の乱によって、江南を除く中原一帯が異民族の蹂躙するところとなり、混乱の中で虐殺や飢饉が頻発していた。こうした中、多量の難民が発生し、またそうした集団や、村々の中には自衛のために集団で武装するところも多数あった。蘇峻もそのうちの一つを形成し、数千家をまとめて、当時の豪族の中で最強を謳われるほどであった。盗賊行為を働き、山東から江蘇にかけてを荒らし回りながら、次第に大規模な武装集団へと発展させた。
その後、江南で東晋が成立すると、仮の安集将軍に任じられ、次第に官位を上げていった。王敦の乱が起きると、東晋の首都建康近郊の国境地帯にいた蘇峻は、反乱軍鎮圧で活躍して、朝廷からその功績を認められ、更に官位は上がっていった。最終的には使持節・冠軍将軍・歴陽内史・加散騎常侍に昇り、邵陵公に封ぜられ、食邑として一千八百戸が与えられている。
しかしろ、蘇峻はその功績に驕るようになり始めた。そして327年12月、当時外戚として政権を握っていた庾亮が、有力軍閥となっていた蘇峻の兵権を削ろうと図ったことがきっかけで、反乱を起こした。
庾亮の討伐を名目に挙兵した蘇峻は、翌328年2月、長江を渡って東晋の国都建康を包囲、火攻めによって陥落させた。庾亮は逃亡し、まだ幼かった成帝以下、当時建康にいた朝廷の関係者全員が捕らえられた。幼帝を擁して驃騎将軍を称した蘇峻は、配下の兵士たちに激しい掠奪を行わせたばかりか、朝廷の百官や、宮中に仕える宮女らの衣服を剥ぎ取って裸にし、官吏には苦役を強要し、王侯大臣であっても破れ筵や草で身を隠し、草もない者は地に座って土で身を覆い、裸を隠す有様だったとされる。
数ヶ月後、陶侃らの義軍に敗北し、その年のうちに蘇峻は戦死している。
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