調淡海
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調淡海(つきのおうみ、生没年不明)は、日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは「つきのあふみ」。姓(カバネ)は首、後に連。672年の壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)の舎人として付き従った。乱の後、『調連淡海日記』を記した。701年に紀伊行幸に従った。727年にも高齢で存命であったが、没年は不明である。
調氏は渡来系の氏族である。壬申の年(672年)の6月、大海人皇子は近江の朝廷に対する反乱を決意し、24日に吉野宮を発って東に向かった。そのときはじめに付き従うものは、二人の子と舎人二十数人と女官十数人だけであった。調首淡海はその舎人の中にいた。その後の乱での活躍については伝えられない。
戦後、「調連淡海日記」を書いた。これは今でいう日記ではなく、回想録にあたると考えられている。失われたが、その一部が『釈日本紀』の中に引用された。
大宝元年(701年)9月18日に文武天皇は紀伊国に行き、10月8日に武漏温泉に着いた。調淡海がこれに従ったことが、『万葉集』に採録された歌一首から知られる。
和銅2年(709年)1月9日に従五位下になり、その後の位階昇進が『続日本紀』でたどれる。神亀4年(727年)11月2日には聖武天皇の皇子基王誕生を祝って五位以上に綿が与えられた。このとき累世の家の嫡子で五位以上のものに絁(あしぎぬ)が10疋加えられたのだが、調淡海と大倭五百足は高齢のため一緒にこの特典に浴した。