賀斉
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賀斉(がせい、? - 227年)は、中国の後漢末から三国時代の呉の武将。字は公苗。賀輔の子、賀達・賀景の父、賀邵の祖父。元の姓は慶氏。
[編集] 経歴
孫策の代から呉に仕え、主に山越など異民族の討伐や反乱鎮圧などで戦功を挙げた。それにより永寧県の長官、南部都尉に任命され、領内の治安を任された。孫権時代にも各地の反乱平定を中心に功績を積み重ね、偏将軍から奮武将軍に任命された。215年の合肥の戦いで後詰めを務め、退却してきた孫権を乗船に迎え入れた。222年の対魏戦において曹休を撃退した。
武勇だけでなく地方統治にも秀でた人物で、各郡や各県の統合や分割に功績を挙げたと言われている。また非常に派手好きな事でも有名で、常に上質で豪華な武具を着飾って戦に赴いた。自身だけではなく配下の軍装も豪奢に飾りつけ、遠目に見るだけで彼の軍とわかるほどであったという。
賀斉伝における、その派手さの記述は以下の通り。
武器甲冑や軍用機具はとびきり精巧で上等のものを揃え、船には彫刻・彩色を施し透かし彫りで飾り付け、青い蓋を立て赤い幔幕を垂らし、大小の楯や矛には花文様を彩り鮮やかに画き、弓や矢はすべて最高の材質のものを用い、蒙衝や戦艦のたぐいは遠くから見やるとあたかも山のようであった。曹休はその威容に畏れをなし、そのまま軍をまとめて引き返した。
223年、呉から魏へ寝返った晋宗を生け捕った。賀斉はその4年後に死去した。