鉢の木会
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鉢の木会(はちのきかい)は昭和中期に組まれた“戦後派”文学仲間による会。会員は中村光夫・大岡昇平・福田恒存・吉田健一・三島由紀夫・吉川逸治・神西清。
当初は1949年(昭和24)ころ、中村、吉田、福田の三人が「無理をしてでも月1回、友達だけで集まり、どんなに高級な議論を戦わしても、低劣な巷話に耽っても、商売のことだけは触れない会」を持つようになったのが始まり。終戦直後でご馳走の調達もままならず、丹精の鉢の木を焚いてでも客をもてなす、という故事から、この会は<鉢の木会>と名付けられ、後に吉川、三島、神西、大岡も加わり、大いに語り合う場となった。 ともすれば、寝食を忘れてでも仕事に明け暮れてしまう当時の風潮へのささやかな反抗でもあったという。
1958年には鉢の木会メンバーが編集人となって季刊文学誌「聲」を発刊、豪華な執筆陣と豊富な内容で話題を呼んだ。
中村光夫に、「鉢の木の燃え残りたる夜寒かな」の句がある。
[編集] 会で起こった事件・紛争
会員の一人の三島にとっては先輩格に当たるこれらの面々から、会の一員として迎えられたことは大きな自信になっていた。が、ある日メンバーの一人・吉田健一から、「お前は俗物だ。あまり偉そうな顔をするな」と面罵される事件が起きた。三島は「鏡子の家」に続いて有田八郎元外相をモデルにした小説「宴のあと」を書き、有田側からプライバシー侵害で訴えられていた。ところが、この時「鉢の木会」の吉田健一は三島を裏切って有田側に立つ発言をした。