鎌田光政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鎌田 光政(かまた みつまさ、生年不詳 - 元暦2年2月19日(1185年3月23日))は、平安時代末期の武将。源義経の父の源義朝の股肱の臣である鎌田政清の子。鎌田盛政の弟。正式な名のりは藤原光政(ふじわら の みつまさ)。
平治の乱で源義朝が敗れ、父の鎌田政清は、義朝の腹心として共に東国へ落ちのびるべく戦線離脱したが、光政は、そのまま京都に残り、融通念仏の僧に変身して生き延びる。光政が京都に残留した理由は不明だが、義朝の室の常盤を陰ながら守るという命を帯びていたともされる。その常盤の子の源義経の家臣となり、義経四天王の一人として活躍する。
義経の郎党といえば氏素性不明の者や盗賊上がりのようなイメージが強く、それが義経の源氏の中での孤独性を印象付けているが、父の義朝の第一の郎党の子の光政が義経の郎党であったことは、源家譜代の郎党において義経は主筋として認められていたことを意味しよう。
カテゴリ: 平安時代の人物 | 武士 | 1185年没 | 日本の歴史関連のスタブ項目